よしおば30

Welcome to New Yoshioba30's Homepage

全国城めぐりのページ

 地域・都道府県別年代別日本百名城国宝・世界遺産現存天守12名城

中野城山居館 東京都中野区中野一丁目  2017.5.5 訪問お知らせ

 ~ 築城主:平重利(中野重利)築城年:15世紀後半~16世紀前半(『北国紀行』という紀行文のなかで、作者尭恵法印が文明17年(1485)6月28日に、中野の平重利のもとに立ち寄ったとの記載がある由。 主な城主:平重利(中野重利) 廃城年:不明 主な遺構:なし 
このあたりは、もと城山町とよばれ、谷戸(やと)運動公園裏に幅5.4mほどの土塁が残っていました。延宝3年(1675)の村の記録には、「中野村のうちに900坪ほど土手を築き、から堀を彫ったところがあり、これを昔から城山と申し伝えている。そこは、もともと名主堀江卯右衛門の先祖からの屋敷地で、いまは年貢地になり、代だい卯右衛門が所持している。」とみえています。
堀江氏は、天正4年(1576)戦国大名後北条氏領中野五郷を治める小代官をつとめ、次いで豊臣秀吉の指令もうけた中野の土豪でしたから、戦国末期の城山は、小城塞を兼ねた土豪屋敷であったことが考えられます。湧水のある中野川の谷戸(谷あいの地)をおさえ、野方丘陵の東南を占める城山は、平忠富の城砦あと、あるいは豊島氏と戦った太田道灌の城砦あと、あるいは豊島氏と戦った太田道灌の陣地「道灌とりで」あとなどともいわれています。
 (中野区教育委員会が現地に設置の案内板「城山」より)
 この谷戸運動公園付近が「中野城山居館」跡とされています。昭和初期までははっきりと遺構を残していて、土塁が方形に囲んでいたことが地誌に書き留められている由。平成3年の調査では、その時点まで土塁が残っていたこと、また、土塁の内側には側溝もあるしっかりと積まれた土塁だったとのこと。また、平成15年の調査では土塁と堀が検出されており、その堀も障子掘りであったことが分かった…(参考資料 「関東の名城を歩く 南関東編」峰岸純夫・斎藤慎一 編) 
  
 住宅地の中の、あまり広くはない公園だが、運動公園として、小学生以下の野球を認めている…偶々訪問時に小学生が大人の指導の下野球をしていた。
 
 公園の南側のフェンスの前に、中野市教育委員会が設置の案内板「城山」が…本文はそのまま冒頭の説明文に引用させていただいた。
    
 公園の南の通りから公園内を見る…少年たちの野球で占領されている?
 案公園の左(西側)の通りから公園内を見る…この道を北へ上がり何らかの遺構が残っていないか見てみようと思ったが、すぐ行き止まり、マンションの敷地であった。  もう一筋左(西)に行き、北上を試みたが、何ら遺構の片鱗も見当たらぬ…クランク状の通路かとも思ったが、それはなさそう!
     
どんどん北へ進むと、「城山公園」に到着…名前からして何等か関連あるかと思ったが、城域(館域)からは少し離れすぎのようだ。
 
 城山公園を後にして、ぐるりと回って、再び、中野城山居館跡(谷戸運動公園)方向へ歩く…ここでもクランク状の通路(左端の写真)を発見。そして谷戸小学校(真ん中の写真)から、公園の右側の土塁が残っていたであろう通り(右端の写真)を見たがここも全く遺構は見つからず。 
 アクセス:JR中央線「中野」駅より徒歩約15分

ギャラリー



ナビゲーション