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 地域・都道府県別年代別日本百名城国宝・世界遺産現存天守12名城

名古屋城 名古屋市中区・北区 1st 2013.3.11、 2nd 2015.6.21 訪問お知らせ

 〜 築城者 徳川家康 築城年 慶長14年(1609年) 主な城主 尾張徳川氏 廃城年 明治4年(1871年) 遺構 櫓3棟、門3棟、庭園、石垣、堀 指定文化財 国の重要文化財(櫓3棟、門3棟) 再建造物 天守、正門 日本100名城(44番)〜
 名古屋城は、徳川家康が天下統一の最後の布石として築いた城。江戸幕府が体制を確立する激動の時代に、濃尾平野を見晴らす高台に忽然と巨大な城郭が誕生した。 関ヶ原合戦の後、当時の尾張国清須城主(24万石)の福島正則は安芸国・備後国(49万8千石)へ転封となり、その後へ武蔵国忍城主松平忠吉(徳川家康第4子)が配された。 関ヶ原合戦の功労者である外様大名は加増して遠国へ転封し、重要拠点には一門・譜代大名を置くという家康の大名配置政策の典型です。 しかし、松平忠吉は慶長12年(1607年)に23歳の若さで病没したので、清須城には、甲斐国府中城主徳川義直(徳川家康第9子)が封ぜられました。これが、御三家筆頭尾張徳川家の始まり。 明治維新後、14代藩主の徳川慶勝は新政府に城の破却と金の鯱の献上を申し出たが、山形有朋が城郭の保存を決定し、天守は本丸御殿とともに保存された。太平洋戦争時の名古屋空襲(1945年5月14日)により本丸御殿、大天守、小天守などが焼失した。(資料 名古屋城公式ホームページより抜粋・編集)
地下鉄、市バス「市役所」下車、東門方向へ歩く… 愛知県体育館・東門方向へ左折して…東門の桝形が見えてきた
      
 橋の上から右側(北側)の空堀を見る…中央部の盛土は?  東門を入って、内部の石積み、石垣を見る…枡形内部にあたる
     
 名古屋城の縄張り図…右下の方の現在地(東門)のところに設置の案内図 先ずは二の丸庭園方向へ行く…
     
名古屋城跡の説明・石碑 
 
 埋門(うずみもん)跡の説明板と石碑…二の丸庭園の西北の位置にあり、危急の場合城主はここから脱出することが決められていた由(左端の明板より)
     
 南蛮たたき鉄砲狭間…二の丸御殿北御庭の北端の石垣の上に長く伸びた練塀の遺構。名古屋城の遺跡としては、非常に珍しいもので貴重な文化財である(左端の写真の説明より) 「北暗渠」の説明板…暗渠式排水路の遺構が、発掘調査した時のままの状態で整備してある。 
     
 「水道石樋」の遺構・・・現在もここにたまった雨水は石樋を通り堀へ注いでいる 二の丸庭園の周囲に残る土塁の名残… 二の丸広場から東南隅櫓を見る…
     
 東南隅櫓から旧二之丸東二之門方向へ、内堀を見ながら歩く…  東南隅櫓(辰巳櫓)…本丸の南東端にある屋根二重・内部三階の櫓。出窓には石落としが設けられている 
     
旧二之丸東二之門が見えてきた…
 
 旧二之丸東二之門への橋の上から堀を見ると、異様な袋がいっぱい!…  東二之門が見えてき…
     
 石垣修復工事で解体された石垣が内堀などに仮置きされ、保護のためにシートで覆われている。
 
 東二之門を内側から見る…  東二之門の説明…本来は東鉄(くろがね)門と言う二之丸東の枡形外門  清正石…その説明板
     
東一之門跡…本丸搦手の内門で、外門である本丸東二之門とともに枡形を形成していた  清正石…”ここ本丸搦手枡形の石垣は黒田長政の担当であったが、巨石だったため普請の名手加藤清正が積み上げたと伝えられている”との説明… 
     
 この奥に、本丸御殿(工事中)と天守閣が…
 
 天守閣が遠くに…  東一之門〜本丸二之門…枡形虎口 本瓦葺の堅牢な二階建てであったが、昭和20年の空襲で焼失 
     
 小天主(東南隅櫓)
 
 天守閣…左が2013.3 撮影のもので、右側の写真は今回(2015.6)撮影のもの。
天守閣自体は当然ながら変っていない。左の写真には本丸御殿復元工事関係の建物が。
  
      
 不明門(焼失再建)…本丸北側と御深井丸をつなぐ門であるが厳重に施錠され「あかずの御門」とよばれていた  
     
不明門から御深井丸へ行く途中の堀…ここにも石垣修理のための解体石垣が仮置きされている
 
小天守を北側から見上げる…   天守北側にあった天守礎石…長く焼け跡に残っていたが、天守閣再建にあたり現在地に移し、かつての敷設状況を再現した(との説明が) 
     
 北西側から天守、剣塀、小天守方向を見る…
 
 北西角から天守を見上げる…   西北隅櫓…清須城天守を移築したと伝えられ清州櫓とも呼ばれた
     
西北隅櫓…見ごたえあるが中には入れず
 
 左、西南隅櫓・正門方向へ…  大天守ー小天主、間の剣塀… 
     
 御深井丸の井戸跡…
 
 御深井丸(おふけまる)…この郭には大筒蔵、手筒蔵などの武具弾薬庫、東の外れには塩蔵があった、との説明が  剣塀の説明…大天守と小天守を連結する櫓台は高い土塀で囲われ堀の軒に鋭い槍の穂先がぎっしりと並べられている。 西之丸にあった井戸…
     
本丸天守から南方向へ…堀沿いに石垣と右端に西南隅櫓 
    
 西南隅櫓から奥の東南隅櫓を臨む… 西南隅櫓の説明…重要文化財、古くは未申櫓とも言われた
   
 「はち丸」が西之丸にいた…八は尾張徳川家の合印
 
重要文化財 本丸表二之門…本丸大手の外門で、内門である表一之門とともに桝形を構成していた。本瓦葺の高麗門で、軒回りは漆喰塗り込めとし、柱や扉に金具を打ち付けている。現存する数少ない名古屋城創建時の建造物である。
     
 左の写真は2013.3 撮影のもの。真ん中の写真は今回、2015.6撮影分。…現在は鉄枠で補強してあった。一番右端の写真は,内側からで、少し離れた場所からの撮影。
     
 これも 2013.3 時点の撮影。やはり、補強はされていないのがわかる。  本丸表一之門跡…本丸大手の主門で、外門である表二之門とともに桝形を形成していた。(右の写真は桝形内部の石垣)
     
 天然記念物 名古屋城のカヤ…推定樹齢は約600年初代藩主徳川義直が大阪に出陣するにあたり実を食したと伝えられる(西之丸の正門近くにある)  正門…明治43年に旧江戸城内の蓮池御門が移築されましたが、第2次世界大戦により焼失したため、昭和34年、天守閣とともに再建されました。(名古屋城公式ウェブサイトより) 
     
 恩賜元離宮名古屋城の石碑…
 
 刻銘石 名古屋城の普請に従事した、筑後藩士田中忠政が担当した、大手桝形石垣に使用されたもの、などの説明が右の写真に… 金鯱…刻銘石の隣に展示されていた 
     
本丸御殿復元スケジュール…2017年度に工事完了予定。 本丸御殿玄関…左が今回撮影分、右は2013.3 時点で撮影の玄関
     
 右の黄色部分が現在公開中のところ…  玄関から入り、下駄箱に靴を入れて、中之口部屋から表書院に進んだ…右の写真は上段の間
     
     
 天守への入場口…  天守望楼よりの眺望…北側? 
   
 南側を見る…遠くに名古屋テレビ塔が見える  右端の方に名古屋駅前のビル群が見える…  西方を臨む…
     
 清正の石曳…清正自ら石の上に乗り音頭を取ったと伝えられている。その様子を模したものとか。 西側から見た石垣と堀(西の石垣の内側の北方向より撮影)  
     
 清正の石曳…説明板
 
アクセス
  • 名古屋市営地下鉄名城線市役所駅下車 7番出口より徒歩5分
  • 名古屋市営地下鉄鶴舞線浅間町駅下車 1番出口より徒歩15分
  • 名鉄瀬戸線東大手駅下車 徒歩15分
※ 「名古屋城〜2015年6月」をYou Tube に投稿しました 。こちらをクリックして、You Tubeのページにジャンプしてご覧ください!

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