よしおば30

Welcome to New Yoshioba30's Homepage

全国城めぐりネット

 地域・都道府県別年代別日本百名城国宝・世界遺産現存天守12名城

守谷城  茨城県守谷市本町 2015.6.2 訪問  2017.12.20 再訪お知らせ


~ 築城主:相馬氏? 築城年:不明(戦国時代?) 主な城主:相馬氏、土岐氏 廃城年:寛永5年(1628) 主な遺構:郭、土塁、堀切 ~
 守谷城は平台山と称する島状の台地と併せて呼ばれている。鎌倉時代の初期に平台山に初めて城館が構築されたが、戦国時代になると戦闘様式等の進展に伴って城は現在の守谷小学校(本郭のあったところ)周辺に増築、移転した。平台山に最初に築造された城のことを守谷本城とも呼ばれている。この守谷本城は鎌倉時代になって、平将門の叔父にあたる平良文の子孫、相馬師常によって築城されたもので、素朴な鎌倉様式を残した名城である。師常は源頼朝の旗上げに最先かけて参陣し頼朝の重臣として幕政に参画し、その功によって相馬郡の他に結城・猿島・豊田(一部)の諸郡を拝領し、更には奥州相馬の地をも賜ったのであるが、守谷本城はそれらの領地を統括する本城としての役割を演じたものである。本城の面積約21,254㎡で、それを3郭に分割し、各郭は大規模な土塁、堀等によって区画され、その堀には満々たる水が入り込み舟着き場も残されている。なおその三郭には妙見社も建てられ、相馬野馬追の行事はその社前で実施されたといわれている。なお、本城は戦国期になって本拠を現在の城内の地に遷したが、その後は守谷城の出城として使用されていたようである。本城は戦国時代を迎えると城内の地にその拠点を移動したが、そのことは城内第六郭の発掘調査によって判明した。この調査によってこの城は15世紀より16世紀全般に亘ってその機能を発揮した城で、ここから戦国期の建造物(宿舎・事務所・倉庫・馬舎)26棟が発掘され、それに付随して井戸・堀・食糧貯蔵庫・墓拡・製鉄加工所等が検出され、多くの貴重な遺物が出土した。なお、小貝川より入る一大水系は満々たる水を湛えて城域を囲み、更にはその城域のきわめて広大なこと、築城技術の入念なこと、それは天下の名城としての様相が偲ばれるのである。永禄9年(1566)城主相馬治胤がこの城を古河公方に提供し関東の拠点となすべく計画を進めたのもこの城であった。この城は北城氏の勢力下にあったので、小田原落城後豊臣秀吉軍の侵攻により廃城となった。(現地に設置の、「守谷城の外観」(守谷城内遺跡発掘調査主任河野辰男氏記)より)
筑波エキスプレス・関東鉄道 守谷駅から徒歩約15分だが、駅前の地図で確認してみると、「守谷城址公園」がありますね!小貝川と駅の間に… 関東鉄道常総線「守谷」駅…
 
八坂神社の前を通り、守谷城址公園方向へ歩く途中の、旧総構えの端に来た。…現状は畑地・住宅地になっている。往時はこの辺まで城域であった。
守屋小学校の傍の道路挟んだ反対側にあった、土塁の残りと説明板…  左の案内板から道路を挟んで反対側に守谷小学校…旧2郭に当たる
     
守谷小学校の校庭とフェンスを隔てて、「平将門城址」の碑がある(左下の写真)…平将門城址があったかどうかは不明だが、この石碑のあるあたりにも土塁的なものが見られる。 
  
 平将門城址碑…
 
上の写真の場所からフェンスに沿って南の方へ歩くと、子供の遊具などがある広場に出た…周囲に土塁のような残存がある。また、フェンス越しの住宅地にも土塁のようなものが見える。  
     
 「和田の出口」…守谷城二の丸の出口に当たるところと言われる。当時この出口は旧守谷城と結ばれて、等の説明が。(右の説明板より)   「和田の出口」説明板…
 小さな社があった…
 小学校(旧三の丸)~和田の出口(旧二の丸)はいわゆる近世に拡張された部分らしい。しかし、遺構はほとんど残っていない。…一方、下の地図・案内板の「守谷城址公園」と称されているところは、戦国期の城跡であり、下の縄張り図のように、各郭と郭間の空堀がきれいに残っている。当時は、周囲が沼地・水堀出囲まれていた模様。
 
上の縄張り図の現在地のところから少し枡形虎口方向へ歩いたところ…
 右上の地図の、現在地・トイレマークの場所から城址公園入口方向へ歩く…写真尾中央部分にかつて木橋が掛けられていたと思われる場所。後ほど、右上の郭に上がって見下ろす。  土塁断面より切り取った部分が下の写真…分かりにくい?
      
 土塁断面モニュメントの案内板…
  
 左上の写真の場所から、公園入口方向へ進む…空堀の入り口に到達(真ん中の写真)。空堀を見通す(相当の規模であるが通行止めになっているが、歩行者が通れる通路が開いていたのでそこから堀底道に入る。)  
     
 入口から少し入ったところには、上の郭に上がる通路が…  空堀内部に入るとかなり大規模であることが分かる。しかも、数か所横矢がかかっている。…下の写真の右側のでっぱり部分がその横矢のひとつ。 
     
 上の写真の通路を上がったところ…
 
 右下の写真のところから進むと、先ほど通ってきた木橋があった場所の地点の上に来た…   左上の続きの平坦地…郭
     
 郭(広場)から北西方向へ進む…
 
 空堀を入って右側の台地に上がり、空堀を見下ろす…車止めの柵が見える 左の写真の位置から、東側方向を見ると枡形状になっているのが分かる?右端には奥の郭群への通路… 
     
 トイレマーク
 
 右上の写真の右端の通路を進むと、次の郭への虎口に来た。ここには恐らく冠木門程度はあったのだろう。そこを入り、右の写真の所を通り郭に入っていく…
     
  
 右の図にあるように、結構広い郭だ。そこの一部に案内板があった…  左の写真の守谷城址案内図より、郭図(一部推定復元)を拝借…現在地のところから郭内部に入ってきたところ。 
     
 
 上の図面の、現在地との表記のある郭…結構広い! 北側の旧舟着場方向へ降りる通路…
     
郭北側の水堀・湿地帯部分…堀の名残が周囲に続く  降りてきたところを振り返る… 
     
北側の堀(右側)と左側の湿地帯部分の間の土塁上を歩く…  郭に向かって右側部分を見る…
     
 再び郭へ戻る…
 
 橋の上から右側堀底を見る… 本丸の東端の部分…旧土橋(現状はコンクリート造りの橋が土橋の上に建てられている)
     
  今度は左側堀底を見る…
 
 橋を渡って、まず、主郭へ通じる虎口…   橋を渡ってすぐのところ…この先に往時は橋があったと思われる
     
上の写真の向こう側にはかなりの深さの空堀があった…
 
 主郭と思われる場所に出た 
     
 妙見郭への通路にでる虎口?
 
 妙見郭内部…  左側が主郭の北西にあたるが、右側に工場らしきものが出来て、遺構は消滅したようだ…
     
妙見郭の説明板・図面…
 
交通アクセス:関東常総鉄道・つくばエクスプレス 「守谷」駅から徒歩、約15分
※ You Tubeに「守谷城IIー茨城県守谷市」をアップしました!こちらをクリックしてYou Tubeのページへジャンプしてください!

ギャラリー