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地域・都道府県別年代別日本百名城国宝・世界遺産現存天守12名城 
 三崎城 神奈川県三浦市城山町   2015.10.19 訪問
 〜 築城者 三浦氏 築城年 不明(鎌倉時代後期?) 主な城主 三浦氏、北条氏 廃城年 1590年 遺構 土塁(一部)、堀切(一部) 〜
 この辺り(三浦市役所・体育館など)一帯は城山といい、古城の跡である。三崎城は海にのぞみ丘陵に地の利を得、土塁、空堀をいく重にも組合わせた中世の山城で、築城の年月は不詳であるが永正15年(1518年)7月11日北条早雲に敗れた三浦義同が新井城(油壷)に滅ぶとき、三崎城もまた落城した。その際囲みを破った城兵は城ケ島に逃れなお抵抗をつづけたという。その頃、三浦氏は戦国の風雲に乗じ相模一円に領域を拡げていったが、三崎城は三浦一族の累代の居城新井城の背後を守る重要な市場であるとともに水軍の根拠地でもあったともいわれている。落城の後、北条氏はこの城に5代にわたり兵を置いたことからいまに北条山の地名が残っている。しかし天正18年(1590年)豊臣秀吉に攻められ小田原北条氏の滅亡に伴い三崎城は廃城となった。(現地、三浦市体育館横にあった三浦氏が設置の案内板、「三崎城跡」より)
三崎港入口の岬公園い設置の案内図より…三浦市役所近辺の三崎城跡を見て、その後本瑞寺、光念寺を回り三崎港からバスで三崎口駅に戻った。  三浦市役所本庁舎が見得る…この坂道が大手道であったとの説がある
     
市役所本庁舎前にあった案内図…この近辺に多くの城跡遺構がある
 
 大手道と思われる道を上がったところから振り返り見る…  体育館前に設置の城址碑と解説板…同じ場所に「三崎城説明図」があったが、風化していて文字が判読できなかった、まことに残念!
 体育館前(中学校との境)の土塁の残存らしき状態…  改めて、三浦中学校(…既に廃校となっている)と体育館の間の通路。…右側の案内板が建っているところはやはり土塁の残存か?
     
 三浦市体育館…この場所も三崎城の郭の一つだったと思われる
 
 右上の写真の通路を東側に降りていくと、「三浦市慰霊堂参道」の標示柱あ見えて来て、そこを入ると、周囲に土塁の残存が見られる(右側2枚の写真)… 
 右の写真の慰霊碑が並ぶ通路の先には郭と呼べるような平坦地があり、そこに慰霊堂が建っている(右下の写真)…
     
 
 慰霊堂の場所から見下ろす三崎港… 体育館前の案内板から東北の方向の搦手口だったと言われれているところ…
  
 慰霊堂のあった郭から戻るところで切通しのような通路が…
 
市役所前の通りを南の方へ下って、三浦市の菩提寺であった本瑞寺に向かう…  廃校になった三浦中学校…当時はここも郭の一つ? 
     
 市役所前の通りへ出て坂を下がる…ここも堀切跡だったと推定される
 
 Y字路を右に入り本瑞寺方向へ…  本瑞寺裏門… 本瑞寺裏門に面した三崎小学校… 
     
 本瑞寺隣の光念寺正門…奥に土塁の残存のようなものが見えるので入ってみた。
右側2枚の写真は本瑞寺との境界部分。この辺は出丸であったとの説がある。
     
 一旦元の堀切跡的な通路に戻り、改めて本瑞寺山門方向を目指す…先の通路から右折してすぐ右側に長い階段が見えてきたのでここを上がる…  上がってすぐ左に山門らしき門が…
     
 本瑞寺の墓地裏側部分から三浦漁港方面を見る…城ケ島大橋が見える  本瑞寺境内にある「桜の御所跡」の説明板…『源頼朝が三浦氏市に桜、桃、椿の御所を設けた。…新井城で滅亡した三浦氏の菩提寺がこの地に移った』等々の説明が…
     
 本瑞寺裏門から三崎小学校を見る…  三崎港バス停のところにあった案内図… 
     
 三崎港…
 
アクセス:京急三崎口駅からバス、「三崎港」あるいは「三崎東岡」停留所より徒歩すぐ
 ※You Tubeに「三崎城ー神奈川県三浦市」を投稿しています。こちらからご覧いただけます。 

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