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地域・都道府県別年代別日本百名城国宝・世界遺産現存天守12名城 

箕輪城お知らせ 群馬県高崎市西明屋 1st 2013.4.23 2nd 2019.3.31 訪問

 ~ 築城者・築城年 明応、永正年間(1492~1521)に長野尚業(ひさなり)が築城し、子憲業(のりなり)、孫 業政(なりまさ)により強化された。 主な城主 長野氏、武田氏、織田氏、北条氏、徳川氏  廃城年 慶長3年(1598年) 遺構 土塁、石垣、虎口、馬出、空堀跡 国指定史跡・日本百名城
 箕輪城は、明応、永正年間(1492~1521)に長野尚業(ひさなり)(業尚)が築城し、子憲業(のりなり)、孫業政(なりまさ)により強化された。長野氏は、武田信玄、北条氏康、上杉謙信の三雄が上総国を舞台にして互いに勢力を争った戦国の世に、あくまでも関東管領の上杉家の再興を計って最後まで奮闘した武将である。特に、長野信濃守業政は、弘治年間(1555~8)から数回に及ぶ信玄の激しい攻撃を受けながら少しも譲らず戦い抜いた優れた戦術と領民のために尽くした善政により、名城主として長く語り継がれている。業政の死後、子業盛(氏業)は父の遺志を守り将兵一体となってよく戦ったが頼む諸城は次々と武田の手に落ち、永禄9(1566)年9月29日、さしもの名城箕輪城も武田の総攻撃により、ついに落城するに至った。武田氏の時代は天正10(1582)年、その滅亡によって終わり、織田信長の時代には滝川一益が一時在城したが、信長の死後は北条氏那が城主となり、城を大改修した。天正18(1590)年、北条滅亡後徳川家康は重臣井伊直政を12万石でここに封して関東西北の固めとし、城下町を整備した。その後、慶長3(1598)年直政が城を高崎に移し、箕輪城は約1世紀にわたる歴史を閉じた。(箕輪城跡保存会が現地に設置の案内板より抜粋・編集 なお、各場所での説明も原則として現地案内版を引用させていただきました)
 現地にあった案内図(縄張り全体)をコピーして、回った順序を記した。  城山口バス停から7-8分歩いて、この搦手口より入山。
     
再建された「郭馬出西虎口門」方向へ行く…
 
 右手に大きな空堀が…後方に「郭馬出西虎口」が見える… 木俣の発掘調査についての説明版… 「木俣」の標示柱と案内板…
 「郭馬出」西虎口…平成14年度の発掘調査で、郭馬出西側の虎口部分で井伊氏時代(16世紀末)の城門の柱の礎石が8石確認された。これらの礎石がすべて残っていた好条件に加えて、各地に現存している近世初期の城門を参考にして、門の建物構造を推定できた。(案内パンフ「よみがえる郭馬出西虎口門」より。平成28年11月には復元工事が完了した。 
   
 大堀切の土塁…2014年度に城最終時の土橋の形状に復元している。廃城後に削られた部分は森戸で復元して、発掘された石垣は地下に保存し、その上に新たに石垣を復元した。(現地説明版より)
  
 郭馬出西虎口門の場所から木俣方向を見る… 郭馬出…50mX30m程の郭で、回りに土手を設け外部から見えない囲いの中に兵を結集し、土手の両側から一挙に打って出る所である、このような大型の馬出を「郭馬出し」という。右の写真の案内板より引用。
郭馬出西虎口門を内側から見る。矢狭間や鉄砲狭間が作られているが、かなり低い位置にあり、現実的ではない感じもした… 大堀切石垣の説明版(右の写真)…幅30m、深さ9mの規模。2001年の発掘調査では堀底付近で石垣が発見された。現地表面から約5m下が石垣の上端になることから、本来の大堀切は現在よりも7.5m以上深かったことになる、等の説明が…虎韜門(ことうもん)に向かう…
 虎韜門(ことうもん)虎韜とは中国の昔の兵書「六韜三略」の虎韜(虎の巻)である。この門をこう名付けたのは井伊直政であろう。 虎韜門から、鍛冶郭方向へ歩く…
     
鍛冶郭への階段を上がる…
 
鍛冶郭に来た…ここには立派な石垣が残る。この郭で武具などを作成・修理した。
     
鍛冶郭から蔵屋敷に向かう途中の大堀切を見下ろす…
 
 三の丸石垣…追手門から本丸に至る大手ルートを固めている、井伊時代に使われていた石垣。1999年の発掘調査で基部が一部埋まっていることが確認され、当時の高さは4.1mにも及んでいたことが明らかになった(右の写真の説明より)。
      
 三の丸石垣を別の角度から見る…
 
 三の丸の石垣…ここも見事な野面積み。当時のものだろうから趣がありますね。
     
 三の丸通路 両側に石を積み上げた堀 5.7mの通路跡が確認された。
 
 三の丸の発掘調査の概要が記されている…  本丸方向にはここから入らず、中央コース順路を通る。堀底道を通り、蔵屋敷・通仲郭方向へ行く…  堀底道かを行くと、渡場市場の場所に突き当たる…右側が本丸側。
 「本丸から蔵屋敷に出る橋の脚を立てた台で、堀はここで狭くなっている」との説明版が…ブルーシートの下の部分に橋脚の位置と思われる場所が明示されている。右の写真参照。 
     
 説明版…
 
稲荷郭・丸馬出方向へ進む…   御前郭西石垣…通仲郭・御前郭の間の堀に架けられた橋の橋脚部の土留めのために自然石を積み上げた石垣(野面積み)。
     
 三の丸・稲荷郭方向へ行く…  通仲郭と御前郭の間の空堀底を、北方向へ歩く… 
     
 御前郭北堀の説明版…
 
 御前郭~稲荷郭、そして新郭~丸馬出へ堀底道を進む… 見上げると、青空にさくら(?)と後方には山並みが見える(赤城山系?)…
     
  丸馬出跡…堀と土手は半円形で両側に出入り口を開く…三日月堀だったようだ  新郭…  稲荷郭…
     
 新郭全体を見渡す…   稲荷郭の説明版…
     
 階段を上がると稲荷社(?)があった。
 
 新郭から搦手口・二の丸方向へ行く。右端の写真の「稲荷郭・丸馬出」からこの道標のところに出てきた…
     
 二の丸に到着…  搦手から二の丸にかけての場所に「本丸門馬出し」… 
     
二の丸から、搦手口方向を見る… 
 
 本丸に来た…後方には「御前郭」右に、そして周囲に土塁が残る。 二の丸から本丸へ…本丸南虎口 
     
箕輪城跡碑と説明版(箕輪城跡保存会作成)
 
  本丸全景…周囲に土塁の名残のような土手が見える(このうち右の写真の東側部分がやや高い)。  本丸から御前郭への途中の左側に大きな堀跡が…本丸北虎口を出て御前郭入り口(虎口)へ。
御前郭の標示柱と説明版… 
     
本丸北虎口…この説明版によると本丸の3か所の門の中で最大規模とのこと。
 
 本丸から大堀切越しに向かい側の蔵屋敷の復元工事現場を見る…  本丸東側の土塁を別の角度から見る…
 
上の写真の土塁上から「搦手口」方向を見る…
 
 
アクセス:JR高崎駅(新幹線、高崎線、八高線)より群馬バスで、伊香保温泉行きで
     城山口下車、徒歩7-8分で搦め手口へ。そこから遊歩道で各曲輪、本丸、二の丸
     三の丸などを巡るか、榛名口入口、大手尾根口入口などから入山する。 
※ 「箕輪城2019~群馬県高崎市~日本100名城」をYou Tube に投稿しました 。こちらをクリックして、You Tubeのページにジャンプしてご覧ください…!

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