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丸岡城 福井県坂井市丸岡町霞 2013.9.18 訪問 お知らせ

 ~ 築城者 柴田勝豊 築城年 天正4年(1576年) 主な城主 本田氏、有馬氏 廃城年 明治4年(1871年) 遺構 現存天守、移築門、石垣 指定文化財 重要文化財(天守)~
 丸岡城は、近世に、山麓部分が増築され、周囲に五角形の内堀が廻らされていた。安土桃山時代に建造されたとと推定される天守は、国の重要無形文化財に指定されている。その他、石垣が現存している。五角形の内堀は現在埋め立てられているが、この内堀を復元する計画が浮上している。築城は、1576年(天正4年)、柴田勝家の甥の勝豊が行った。1582年本能寺の変の後の清州会議により、勝豊は長浜城に移され、代わって勝家は安井家清を上代として置いた。1583年柴田勝家が豊臣秀吉に北ノ庄城で滅ぼされると、この地は丹羽長秀の所領となり、長秀は丸岡城主として青山宗勝を置いた。関ヶ原の合戦の後は徳川家康の二男結城秀康が入封し、丸岡城には秀康家臣の今村盛次が入封した。その後幕府より付家老として本多成重が新たな城主となり、その後1624年本多成重は福井藩より独立し大名に列し丸岡藩が成立した。1695年4代重益の時代に、本田家の丸岡藩でお家騒動が起こり幕府の裁定により改易となった。代わって有馬清純が5万石で入城、以後、有馬市丸岡藩6代の居城となり明治維新を迎えた。(ウィキペディアより抜粋・編集)
天守に向かう途中右にあった神社 駐車場から天守へ、天守が初めて見えるのは北東のこの位置 もう少し近づいた所の天守
北よりから天守を見上げる 石製鯱で昭和23年の福井大地震で落下、その姿がここにある 天守の入り口は東にありそこから階段天主を見る
入った所に階段、以前はこんなロープは無かった。登られる方はロープは左右に動くので手すりに頼られる方がいいかも 一階から2階へ上がる階段、傾斜は60度位で非常に急です 一階の室内の説明板 一階の室内、20坪位とのこと、
ここからも階段の急さが良く分かる
2階から3階への階段、1~2階よりはるかに急 3階天守より西を見る 3階天守より北を見る
3階天守より東を見る 3階天守より南を見る 3階天守室内
天守土台回り(東側)、雨水流入を防ぐ瑕疵は豪雪地帯のため外壁に比べ天守石垣が一回り大きく出っ張っている 室内にあった昔の丸岡城の城域の模型
 東の屋根の鬼瓦、城には珍しい阿吽の形が使われこれは阿形(口を開けているのがわかりますか?) 左の写真で説明の鬼瓦、これは西側の吽形、天守の西側は写真が撮れないので管理の方持参の写真を撮らせてもらった  これは少し見にくいですが先ほどの写真(一つ上の行の一番左)、東側は石垣が瑕疵の外に出っ張っていたがこの南側は瑕疵の方が出っ張っている。これは天守に歪みが出ているかららしいです
南の石垣の一番上、茶色の四角い石は寺の礎石を使っている  天守の下に建つ日本一短い手紙の碑、家康譜代の第一の功臣本多左衛門重次が陣中から家族に送ったもの 天守から一段下がったところの北側に唯一残る石垣
3階天守より東を見ると「お静の碑」が。この碑は、天守建築がなかなかうまくいかなかったので人柱として犠牲になったとか、その代わりに息子を武士にとりたてを約束したが実行されず、それ以降雨の度にお静の涙雨と呼ばれるとか) 東から見た天守
雲の井(丸岡城築城後も敵に度々襲われ、その度に天守横の井戸から大蛇が現れ城に霞をかけて救ったとか、別名の霞ヶ城のいわれがここからきた)
アクセス:JR北陸本線 福井駅から、京福バス「本丸岡」行で約40分、[丸岡城」停留所下車すぐ

※ You Tubeに「丸岡城―福井県 日本100名城」をアップしました! こちらをクリックしてジャンプしてください

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