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真壁城 茨城県桜川市真壁町古城 2017.5.27 訪問知らせ


 ~ 築城主:真壁長幹(たけもと) 築城年:承安2年(1172年) 主な城主:真壁氏、浅野氏 廃城年:寛永5年(1628) 主な遺構:郭、土塁、空堀、水堀 国指定史跡
中世、常陸平氏一族として400年以上にわたり真壁地域を治めた真壁氏が戦国時代に拠点とした真壁城は、戦国時代前半と後半の2つの城からなることが、発掘調査で確認された。1つは地下に眠る戦国前半の真壁城。城は家の没落と再興を経験した当主・真壁朝幹の遺言の後に子孫が造った館城で、戦乱の世に家の結束を図るかのごとく、館群が集合形態をとる。もう1つは現況の本丸中心の真壁城。古い真壁城を埋め、戦国後半に造り直した城である。その構造は複雑に屈曲する大きな堀と土塁を備え、鉄砲戦に備えた要塞である。この真壁城を造り上げた真壁久幹(道無)の時代以降、真壁城の城下町建設も本格化した。平成6年、国指定史跡。発掘調査と復元整備が進み、戦国の城がよみがえりつつある。(真壁伝承館歴史資料館で入手の資料より抜粋)
真壁城は筑波山系から北西へ伸びる尾根が平地へと至る微高地上に築かれた平城です。北を田中川、南を山口川に挟まれた東西に長い城域で、南北約400m、東西850m、国史跡の面積は約12.5haです。現在遺構が良好に残っているのは県道41号線より東側の部分ですが、城はもっと西まで広がっており、大字古城(ふるしろ)の範囲が本来の真壁城跡です。真壁氏が一貫してこの地に居城を築いていたかについては諸説ありますが、発掘調査の成果では15世紀中頃(室町時代後半)に方形の館が築かれ、そのたび幾度かの改変を経て16世紀後半(戦国時代~安土桃山時代)に今の形になったことが分かってきています。真壁城は本丸の周囲を二の丸・中城が囲み、東側に外曲輪、西側にVの郭が連結した構造となっています。城の西側には城下町が形成され、現在の街並みへと繋がっています。城内には当時の建物などは残っていませんが、土塁や堀などの痕跡が良好鬼保存されています。(現地・本丸に設置の案内ペーパー「国指定史跡 真壁城跡 平成24年度版」(裏面には縄張図と真壁伝承歴史資料館との位置関係図があります。)より抜粋・引用。
 真壁伝承館…ここはかつて真壁陣屋があった場所で、伝承館建設に際し発掘調査が行われ、地下に眠っていた陣屋の一端が判明してきた。調査結果、陣屋を囲むように堀が巡らされていたことが判明。 真壁城航空写真…真壁伝承館に掲示の資料より、真壁城とその城下の街並みがうかがえる。現在の城域は、本丸(体育館のある場所)~二の丸~中城~外郭部分が古い真壁城を埋めて、戦国時代後半に造り直した部分。一方、真壁伝承館を中心とするエリアは古い城跡・真壁陣屋があったところ。新しい方の城跡は複雑に屈曲する大きな堀と土塁を備え、鉄砲戦に備えた要塞であった。(伝承館資料より)
     
桜川市真壁伝統的建造物保存地区(国選定)…江戸時代から道幅もほとんど変わらない町割りに、江戸末期から昭和前期までの様々な種類の伝統的な建物がある。(下の写真もその一部と思われる)
 
 本丸の案内板より縄張り図の一部を拝借・拡大…朱色で記したルートで回った。即ち、本丸→(城址碑・社のある一角)→二の丸→中城→北側の土塁上を歩いて→外郭(鹿島神社)→方形館跡→南側虎口→再び本丸へ戻る 本丸北側部分の城址碑(国指定史跡と標記あり平成6年の国史跡指定寺のものか…左側に鳥居が見えるがこの先にも城址碑が。
     
 上の写真の、鳥居の方向へ入っていくと稲荷神社が…この周りに堀が巡っている(左下の写真参照)
 
 右上の部分からさらに奥の場所を見る…写真ではわかりにくいが横矢の掛かった堀・土塁が見える  こちらは昭和10年に建てられた城址碑(皇紀2595年と記されている)…  本丸の目印となる体育館…ここの駐車場は広い。体育館のトイレも利用できる。
     
 体育館のある本丸から二の丸への土橋(右の写真は土橋を渡り終えて振り向き撮影)上から左側の堀(左上の写真)を見る…現状では空堀状態(堀底は草が茂っているが湿地状態のようでもあり堀底へは降りられなかった)  
     
 こ地らは土橋上から右(北)側の堀を見る…堀幅は10m位あろうか
 
 先程の土橋から二の丸へ降りていく…右上の写真から、その右下の写真2枚に続く。そして、左の拡大写真に続く。青いビニールシートが見えるところは中城で、発掘調査が引き続き行われているのだろう。左下の写真の右奥方向に外曲輪の鹿島神社の鳥居が見える。右回りで、その場所に向かう。
     
 土橋を渡ってさらに進むと左の写真のところへ…
 
 二の丸に入り、左方向へ進むと土塁のように見える場所に…土塁にしては不揃いの形状をしていることから本丸造成時の残土積み上げか?(不詳)  非常に大きい土塁に沿い東方向へ進む…この土塁は非常に揃った形状であり、復元土塁と思われる。 
     
 上の写真の続きの部分…中城の西側部分であろう
 
 右上の写真の場所から、南方向の、堀に囲まれた部分を見る…草が生い茂っていて近づけない。中城と外曲輪の間の堀だろう。  上の写真の、土塁横の通路を進む…
     
 中城内部の発掘調査部分の一部?
 
 北戸張エリアの、北虎口…右の階段を上がり土塁上へ。階段を上がったところから虎口を見下ろしたのが右の写真。発掘調査結果では木橋が出土した由。また、この付近では障子掘りが出土したとのこと。
     
 土塁上を鹿島神社方向へ歩く……
 
 北虎口から外曲輪の東端を鹿島神社(鳥居が見えますね)を目指して歩く… 土塁上から手前の堀を見る…
     
ここが東虎口だろう…右方向に鹿島神社、左側に神社を囲むように堀が続いている。
 
 右上の写真の場所(左側)の虎口に繋がる土橋部分(木橋が出土した由)。奥と手前にはかなり広い堀跡が… 東虎口の南側端…左側には左上の写真の土橋から神社方向へ入る場所になる  
   
鹿島神社入口付近から南方向を見る…左側に土塁の列が見える。
 鹿島神社の鳥居の側にあった案内板…鹿島神社周囲の土塁を見てから、南虎口方向へ歩いた。方形居館跡は発掘調査で分かったが現状は埋め戻されており痕跡は分からない。鹿島神社の裏には当時のままと思われる土塁があった(別掲参照)…  鹿島神社入口の石の鳥居…
 
 鳥居をくぐり進むと、社殿が見えて来た…
 右の写真の裏側に土塁を発見…「土塁」との案内標示板があった。真壁城は国の史跡だが、案内板標示が少ないようだ。  雰囲気のある社殿?… 
     
上の写真の場所から、左(北)方向へ行くと、これは空堀の残存か?不詳。
 
こんな感じで、樹木が茂っているが立派な土塁だ!当時のままだろう… 北側の堀際の土塁を見ながら北方向へ進む…
  
 この先は崖状で、眼下には堀底が見える…かなり深い堀だ。ここを北に進むと東虎口の土橋に通じている
 
この先、東虎口のところまで行き、元来た鹿島神社の鳥居の方へ進む…  鹿島神社のある南東方向を見る…右側の土塁は復元土塁、またこの写真の手前右辺りが、薬研堀(方形居館跡)が発掘された場所と思われる。 
     
土塁の端(東虎口寄り)から、下に降りて鹿島神社の鳥居方向へ進む…
 
 鹿島神社鳥居付近から南側の復元土塁方向へ行く…ここはきれいな枡形に作ってある。右上の写真は桝形虎口に内側から入ってゆくところ。左の拡大写真に続いて、右下の写真へ。
   
左の写真からこの写真の場所に続く…
 
 南側の土塁を外曲輪の外から見る…復元土塁であり、土塁の尾根上に植栽のようなものがあるのが奇妙?  同じく外側から北方向を見る…水堀が残っている形  「真壁城跡」との標示看板があったがこの写真ではわかりにくいですね!
     
南虎口から出て、南側の水堀を見る… 東西に伸びる土塁と水堀…これも復元ですね!
上の写真で、左側に見える虎口状のところをアップで見る…
 郭内部(中城)に入り東方向を見る…前方に櫓台のようなものが見える。近づいてみるとコンクリートの枠が埋め込まれており、どう考えても近代のものと思われる。  左の写真の、櫓台的な所を別の角度から見る…いかにも造成された土塁ですね!これも復元か? 
     
 二の丸・中城の間の掘…図面の丸くなっている部分か?
 
 「曇り」の天候だったが、最後まで筑波山の全容は見られず…
   
 旧真壁城藥井門が、現在は楽宝寺黒門(旧大和村)として移築されている…楽宝寺では真壁城からの移築門との説明類は一切なし。  市内「正得寺」に真壁氏累代の墓が… 
     
 
 アクセス:
J最寄りの駅はJR水戸線「岩瀬」駅、そこからはタクシー利用が便利(約25分)
※ You Tubeに「真壁城 戦国時代の2つの城下町」をアップしました!こちらをクリックしてYou Tubeのページへジャンプしてください…!

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