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桑名城 三重県桑名市吉の丸 2013.7.31 訪問お知らせ

 伊勢平氏の庶流の清綱は桑名に移って以降、子孫は桑名氏を名乗る。鎌倉時代の初め、清綱の後裔である桑名行綱は鎌倉幕府から桑名の地を与えられ、そこに城館を築いたのが桑名城の始まりであろう。室町時代には桑名は商人たちの自由都市が形成され、堺、博多などと並ぶ貿易拠点となった。1567年に美濃を攻略した織田信長は伊勢にも侵攻開始した。滝川一益を先鋒とする織田軍はたちまち伊勢一国を平定した。一方伊勢では、長島一向一揆が起こるが、1574年に一揆軍は敗れ、滝川一益が伊勢5郡を与えられた。本能寺の変後の豊臣政権下で伊勢の支配者はめまぐるしく変わったが、1591年に城主となった一柳直秀が近世桑名城の基礎を築いたと言われている。1600年の関ヶ原の合戦では、当時の城主氏家行弘が西軍に属したため桑名城は没収され、翌年本田忠勝が桑名藩10万石を与えられた。忠勝は大改修を行い、櫓51基を備えた本格的な近世城郭を築いた。忠勝の子忠政は1617年に播磨に移され、松平氏が11万石で桑名藩主となった。3代家綱の時代に再度大改修がなされ、四重天守が築かれたが、1701年の大火により天守をはじめ多くの櫓が焼失した。幕末には、松平定敬は戊辰戦争で早々と降伏し無血開城したが、桑名藩を敵視する新政府軍により徹底的に破壊された。(資料 週刊日本の城13及び城郭放浪記より抜粋・編集)
1928年(昭和38年)本丸・二の丸一帯を整備して九華公園とした。その九華公園の全体図。先ずこちらを見てください! 筏橋を渡って東側の堀を臨む
        
舟入橋より右(東)側を見る。三の丸堀と二の丸堀の間の堀 
 
 本多忠勝銅像
 
花菖蒲園手前の橋 左奥に
二の丸跡への橋が見える
二の丸跡から辰巳櫓への橋 辰巳櫓跡より…赤い橋はすべてコンクリート製、石垣も近代のもの 辰巳櫓跡から本丸跡、天守閣跡を経て、市民プールを右に見て、少し歩くと揖斐川に面した土手に到着…伊勢湾台風で大きな被害があった場所
 先ほどの土手を河口方向に歩くと「水門統合管理所」に。この管理所はかつて桑名城の隅櫓のひとつである蟠龍櫓が立っていたところであるため、建物の設計にあたりこの櫓の外観復元を目指すことになった。伊勢湾台風で当初の石垣が失われているなど、復元のための歴史資料は限られていたが、絵図等に描かれた櫓の姿や同時代の類例を参考に、2003年(平成15年)に往時の姿になるべく近づけるように推定復元された。(現地に設置の案内板説明より抜粋・編集)
    
 
 「蟠龍」とは、天に昇る前のうずくまった状態の龍のこと。龍は水を司る聖獣として中国でも広く用いられている。この櫓についても、航海の守護神としてここに据えられたものと考えられる。   明治以降桑名城は市街地となり石垣などの遺構は殆ど消失した。三の丸南部にわずかに残る当時の石垣が見える  桑名は伊勢の玄関口として栄えた。七里の渡しには伊勢神宮の一の鳥居が建てられている
      
アクセス:JR関西本線・近鉄名古屋線桑名駅から徒歩15分位

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