よしおば30

Welcome to New Yoshioba30's Homepage

全国城めぐりネット

 地域・都道府県別年代別日本百名城国宝・世界遺産現存天守12名城

久留里城  千葉県君津市久留里 1st 2013.3.9 2nd 2016.2.2訪問お知らせ

 〜 築城者 真里谷武田氏 築城年 15世紀中ごろ? 主な城主 上総武田氏、里見氏、後北条氏、大須賀忠正、土屋忠直、黒田氏 廃城年 明治5年(1872年) 遺構 土塁、空堀、井戸 再建造物 模擬天守 〜
 久留里城は「城成就して、3日に一度づつ雨降ること21度なりしかば」(『久留里記』という説から、別名を「雨城」と言います。戦国期の16世紀中頃、西上総地方は真里谷武田氏の勢力下にあり、久留里城もその一族の居城でした。天文年間(1532〜55)の後半になると、安房の里見義堯は上総に進出し、本拠地を久留里城に移します。永禄7年(1564)、下総の国府台の戦いで、里見氏は北条氏に敗北、久留里城も一時、北条方の手に落ちています。しかし、2年後、里見氏は久留里城を奪還し、上総の大半と下総の一部を制圧します。その後、北条氏の勢力に押され、天正5年(1577)、里見義弘は北条氏と和睦します。義弘の死後、家督を継いだ里見義頼はは安房の安房の岡本城を本拠とし、久留里城には城番か置かれています。天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めの際、里見氏は勝手な行動を取ったという理由から、上総の所領を没収されました。以後、関東は徳川氏の支配となり、久留里城には大須賀忠政が3万石、慶長7年(1602)には、土屋忠直が2万石で入城します。江戸の土屋邸で生まれた後の儒学者新井白石は、土屋家2代目の利直に仕え、18〜21歳までの青年期をこの久留里で過ごしています。3代目の頼直の時、お家騒動が起こり、延宝7年(1679)、領地召し上げ、廃城となります。約60年後の寛保2年(1742)、黒田直純がが3万石の藩主となり、幕府から5千両を拝領し、3年の歳月をかけ城を再興しています。黒田氏の治政は、初代直純から約130年間続き、9代直養の時、明治維新を迎え、明治5年(1872)、城の建物は解体され、久留里城の幕は閉じられます。(久留里城址資料館が二の丸跡に設置の案内板「上総 久留里城」より
 JR久留里線久留里駅(右の写真)近くにあった周辺案内図…ここから徒歩30分 
    
久留里駅ホームにあった「名所案内」…久留里城本丸2Kmとある
 
駅を出てすぐの商店街にあった… 久留里城のある山の麓、三の丸と思われる地点で、「久留里道(参勤交代道)との標示柱と「大手門跡」方向と思われる道路…
旧三の丸であった農地に入り久留里城の有る山を見上げる…右端の方に白い壁のようなものが見える(二の丸の資料館前の神社の前の広場)。左の写真がその部分の拡大…
久留里城への道標…
城址方向へ曲がって振り返る…さんのまる薬局が旧三の丸の場所に。周りに土塁の残骸のような場所も見える(右の写真参照)が?
  
 前方に「久留里城入口」の標識…
 
 ここにも道標が…あちこちで案内標示があり迷うことはないですね!  民家の間にトンネルの入り口が見える…手前の左側に本来の登城道が
     
 トンネルを過ぎて少し歩くと駐車場(左側)に。右が登山道… 駐車場の周囲に残る堀跡?(この辺に居館跡があったとか)…  
     
左方向へ歩く… 駐車場内にあった案内板より…林間歩道を通らず右の舗装道路を行く
      
 こんな案内標示がありました…
 
二の丸まで460m… 駐車場・各郭の高さ(海抜)… 舗装道路途中で探鳥路を通り、二の丸・資料館へ尾根道を行く…
 探鳥路への階段の手前にあった案内図…覆われているところは久留里古城への案内があったのか?  資料館方向への尾根道…
     
 途中に「火薬庫跡」が…
 
 更に、尾根道を歩くと左側にフェンスが見えて来て、最初の舗装道路が左下に見えてくる…
 西側の崖の下を見る…  堀切の名残が見えてくる…帰途下の道路から見た堀切はしっかり見える 
     
 奥に資料館の建物が見えて来た…
 
 資料館の手前に「お玉が池」…説明は右の写真参照 
     
 久留里曲輪にあった説明板…
 
 久留里曲輪…それほど広くはない。手前の段には多くの歌碑が 
     
 曲輪の端から断崖の下を覗いた…すごい断崖
 
 資料館・二の丸に入る手前の「薬師曲輪」…旧三の丸が下に広がる(左下の写真も参照) 
     
「雨城八幡神社」… 
 
 薬師曲輪から見える旧三の丸跡…大手門跡等探索したが発見できず  里見北条古戦史の説明碑…  久留里藩士土屋氏に仕えた「新井白石」像…
     
 資料館裏手にあった「二の丸・長屋塀跡」の説明板…発掘調査の結果「礎石」が発見されている 「上総掘り」方式の井戸堀櫓…明治中頃君津地方で考案されたとか
     
 久留里城址・二の丸跡の標示…  「久留里城址資料館」…  資料館のすぐ隣に…三の丸に続く旧登城道
     
 急こう配の悪路、竹藪もあり立入禁止…  改めて、本丸方向へ尾根道を登る…
     
 途中にあった「男井戸」、「女井戸」…説明は下の写真 天神曲輪…奥の建物はトイレ 
     
 奈良時代に掘られたとか…北条氏の来襲に対して籠城にも耐えたとか
 
 元の尾根道に戻り本丸方向へ…  本丸への階段の手前に「波多野曲輪」…素晴らしい眺望が開ける
     
 久留里城天守閣を仰ぎ見る…模擬天守ながら雰囲気がありますね!   模擬天守の北側に「天守台」が…
     
 発掘調査で礎石群が発見されている…
 
 土壇(天守台)の北の端から天守を見る… 本丸北側に残る土塁の跡…  「怒田」方面への通路…天守に上がった後に怒田方面へ行く
     
 天守東側の腰曲輪方向を見下ろす…  西方向(上がって来た通路側)を見る 北側(天守台)方向を見下ろす…
     
 東側の「弥陀曲輪」を見下ろす…  腰曲輪から「弥陀曲輪」へ行き、天守を見上げる… 
     
 「怒田」方向へ行く…
 
 「怒田」方向への案内標示に沿って、尾根道に入ると「ハチに注意」(右の写真)の警告が(冬場はスズメバチも出ないと思うが)…下の写真のような断崖の上の小路が(足を滑らせたら…)。ちょっと怖いですね! 
       
 堀切の北東側を見る… 怒田尾根の最初に遭遇したでかい堀切…削った岩盤の迫力が凄い 
     
 南西側の崖下を見る…急峻
 
 堀切の東側の崖を下から見上げる…  堀切の底面から北東側を見る…
     
 堀切を下からまわって更に東方向へ進む…
 
 尾根道から崖下を覗きこむ…  こんな感じで、危険を感じ左側の尾根道に戻るべく悪戦苦闘…
     
 だんだんと尾根道がわかりにくくなってきた…
 
 堀切の底を見ると…結構垂直的に削られていて危険。下に回って降りる。   堀切の底の方に進む…
     
 堀切の底に到達…   堀切の壁面は岩がむき出しで迫力がありますね!…
     
腰曲輪的なところを回って東の方へ…
 
白い木柱の道標があった(右、久留里城址、左、怒田) 尾根道はこれ以上進めそうもないので、下の道を探して下る…  
     
 上の写真の先はこのようになっており、進めなく、引返す…
 
 天守のところに戻って来た…  天守台(土壇)側から見た天守…
     
二の丸(資料館)方向へ引き返す…林間道を通って
 
 資料館横の舗装道を下って来ると、「鶴の曲輪」が…比較的小さな曲輪  「シカ・イノシシ出没します」の表示が。彼らは冬眠しないですよね! 
     
 この曲輪の端から崖下をのぞき込む…結構急峻だ
 
 来るときに通った尾根道・フェンスが見える…この下の方に「堀切跡」が。右の写真では断崖の堀切がくっきり残る  
     
 駐車場方向への舗装道路…
 
 別名「雨城」… 真勝寺…武田一族の勝真勝(すぐろまさかつ)の開基。久留里藩最後の藩主黒田直養(なおなか)の墓がある…右の写真の説明より
     
 黒田直養の墓…幕末に官軍に一人で抵抗しようとして制止する父親に切られた久留里藩士 杉木良太郎の墓もある 
     
 真勝寺は古城の時の居館跡との説もある。また、墓地の裏手には複数の段曲輪が確認されているようだ…
 
アクセス:JR久留里線「久留里駅」下車 徒歩30分
※ You Tubeに「久留里城 千葉県君津市」をアップしました!こちらをクリックしてYou Tubeのページへジャンプしてください! 

ギャラリー



ナビゲーション