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 地域・都道府県別年代別日本百名城国宝・世界遺産現存天守12名城

幸谷城 千葉県柏市増尾4丁目(字幸谷) 2017.5.17 訪問知らせ


 〜 築城主:不明(相馬氏?) 築城年:鎌倉時代?  主な城主:相馬氏 廃城年:不明 主な遺構:土塁、堀 
地元の人々が「狐山」と呼んでいる、千葉県柏市増尾1400番地(字幸谷)に中世村落小領主(土豪)の居館跡(城郭)とみられる土塁が残存している。標高15、6m位の舌状台地で東側面と南側面が断崖となり細く(幅100m程)、深い谷津田が入り込んでいて(現在住宅化してしまった)、北側は農家屋敷となり一段と低く、さらに道路で区切られ又一段と低く増尾の表谷津に繋がっている。近在の城郭跡の如く戦国期の特徴を現す三方嶮山岨な地形(舌状台地)とは少し違うがほぼ合致する。土塁や堀の形状などにより、南北朝以降の城郭であろうと思われる。現増尾城跡の南方、谷津田を挟んで直線にして700mの距離に位置する。この間の谷津田が中世に於いては葛飾群と相馬郡の境で上流(西方)が酒井根(さかいね… 柏市)村である。又下流は大津川に結び、手賀沼へと繋がっている。増尾字幸谷に残っていたこの城郭跡に付いての記録は、郡詩、柏市史等その他の論文集には書かれていない。全て現増尾城について書かれたものである。現増尾城となったのは大正11年に作成された土村詩に時の編者が付けた名のようである。 〜中略〜
今回発見された居館跡を中世の城郭跡と断定する理由として ・土塁が城郭形態をなしていること ・城と関係の深い「根小屋」がすぐ側にあること。 ・「土倉」と見られる地下蔵が発見されていること。 ・城跡後方(西方)に「馬場」という地名があること。 ・物見台跡があること。(単なる屋敷跡と城郭の違いの重要なもので、近くの城(現増尾城)が見渡すことができて、さらに遠くを見通すことの出来る施設) ・武器である「矢」の材料となる「矢竹(矢篠)が群生している。…以上の理由などから狐山と呼んでいる字「幸谷」のこの城郭跡を「幸谷城」と呼ぶことにする。
(現地に設置の案内板より抜粋、引用いたしました)。
 現地案内板に、下の写真の地図が掲示されていた。柏市立「土(つち)小学校」から万福寺の横を通り、城跡に来た…下の地図の「雑木林」と記された土塁に囲まれた場所が居館跡(城跡)とされている。個人の屋敷地の一部となっているが見学が可能となっている。
 
 上の写真の「雑木林」の記された場所の拡大図…三方の土塁の残存が確認できる。手前(屋敷・の内側)の土塁は消滅しているようだ。
 
 この民家の入り口を入って、屋敷・畑地を左に見て、北に進むと、方形館跡の森が見えてくる(右の写真)…その館跡の西側(上の写真の幸谷と標示されている側を見る(下の写真…土塁・空堀の残存)
     
この雑木林の内部は、遊歩道的に道が整備されている…
 
 左上の写真のところから雑木林に入り、北西側の土塁跡・空堀跡のところに出て振り返り見る…右上の写真は、左の写真の土塁部分。
     
 左の写真の部分を民家沿いに南東方向を見る…矢張り土塁・空堀は分かりにくい
 
 三日月堀のところからすぐ北のところに「八幡宮入口」の標示柱があり(図面のAの場所)。上がってみると、そこは「三の丸」茶畑と雑草地(真ん中の写真)、そしてその三の丸の北西隅に「八幡宮」が(右端の写真)…
     
 拡大図の北東側(住宅地側)の土塁…2m位の高さ。これらはいずれも土塁の内側から見たもの
     
 
     
 北東側の土塁の内側の「虎口」と思われる場所…図面から見ると、食違い虎口となっている。
     
 
 冒頭で引用した案内文、縄張り図(拡大図)などが掲示されていた(虎口から内側に少し入ったところ)…  虎口を出てすぐのところを見る…よくわからないが草木の下には溝(旧空堀?)らしい跡がうかがえる 
     
 虎口から外に出て、館跡の端の部分と民家との間の通路…当時の堀跡と思われる
 
 拡大図の左側(北東)を北西方向へ上がる…土塁とその手前の空堀跡が伺える 左の写真のところに出る前に、雑木林の中を北西へ進む…
     
 城跡のある民有地を出て公道を北西方向へ進む隅に稲荷社が…物見台跡のように少し高くなっている(不詳)
 
 アクセス:東武野田線「増尾」駅から徒歩約15分。

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