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鬼の城 岡山県総社市 2013.5.29 訪問お知らせ


 ~ 築城者 大和朝廷? 築城年 7世紀後半? 主な城主 不明 廃城年 不明 遺構 石垣・土塁、水門 その他 国の史跡 再建造物 門・石垣、土塁 ~
 鬼の城は、すり鉢を伏せたような形の山で、斜面は急峻だが頂部は平坦である。この山の8合目から9合目にかけて、城壁が2.8kmにわたって鉢巻状に巡っている。城壁は、一段一列に並べ置いた列石の上に、土を少しづつ入れてつき固めた版築土塁で、平均幅は約7m、推定高は約6mもある。要所には堅固な石垣を築いており、その威圧感は天然要害の地であることとあわせ、圧倒的な迫力を持っている。このように、版築土塁や高い石垣で築かれた城。動乱に明け暮れる7世紀後半の朝鮮半島で、百済に援軍を送った日本は、663年の白村江(はくすきのえ)の戦い唐・新羅の連合軍に大敗した。唐・新羅連合軍の日本侵攻を恐れた朝廷は、早急に北九州から瀬戸内沿岸、畿内にいたる国土防衛の施設を築く必要があった。鬼の城もそれらのひとつとする考えが有力。鬼の城は、古代の正規の歴史書には登場しないが、後世の文献では、「異国の鬼神が吉備国にやってきた。彼は百済の王子で名を温羅(うら)という。彼はやがて備中国の新山に居城を構え、しばしば西国から都へ送る物資を奪ったり、婦女子を略奪したので、人々は「鬼の城」と呼び、都へ行ってその暴状を訴えた…」これが一般に温羅伝説と呼ばれる説話で地名もこれに由来している。また、新説温羅伝説も下部(地図の横)に記したので参照されたい。(総社市ホームページより抜粋・編集。)
中国自然歩道案内図(古代山城)一番下に「服部駅」 JR吉備線服部駅から、徒歩で6kmだが、後半は登りが続いたのできつかった。総社駅からのタクシーを勧める。 
    
 砂川公園を過ぎて少し行くと二股道になるが、右側へ。砂川公園には飲み物自販機、トイレも整備されている。
 
 道自体は舗装されており歩きやすいが、後半はひたすら登り坂でかなりきつかった。
 
 鬼城山案内図。ビジターセンターから矢印に沿って、地図の角楼からぐるっと右回りで一周したがその距離は計2.8km、見物しながらゆっくり歩くと約1時間ぐらいかかった。ビジターセンターで飲んだ水(冷えたバナジウム水、センタで無料提供、美味しかった、感謝!)
  
鬼の城ビジターセンターが総社市により開設されており、写真や模型が展示されている。 温羅伝説にある、温羅がいけにえを煮て食べたという伝説の残る鬼の窯 鬼の城の楯 中央に描かれた「鬼面」は、奈良県藤の木古墳(6世紀後半)出土の馬具に彫られた壁邪獣をもとに図案化されたもの 西門 南門と同規模の大型の城門で間口
3間(12.3m)、中央1間を通路とし、2間の奥行をもち、12本の柱で上屋を支える。
       
西門を展望台から臨む 同じく、西門が霧の中に… 角楼跡 ここは、尾根続きで攻められやすいため、城壁の死角を補い防御力を高めることを目的として、城壁の一部を長方形に張り出している 角楼跡を後ろから見る。角楼の下半部は両側の石垣と同じように石垣積で、ほぼ4m間隔で一片50cmの角柱が石垣の間に建っていたことが分かった。
       
 西門遠景
           
西門入口
 
敷石は、国内の古代山城はもとより百済の山城でも殆ど類例がない  
 
西門の右側石垣部分 西門の石垣から
水門、南方面への通路
城壁下部の石垣… 歩いていた通路より下の部分で、土塁が見える石垣
       
南門跡 一片55cm前後の角柱を12本使用した、大規模な掘立柱城門。 棚列 敷石(通路)
       
第3水門跡の辺り 第4水門
            
内側列石 
 
 第4水門を臨む
 
第4水門の標識 棚列、棚列… 第5水門跡の標識
       
第5水門の後の高石垣?
       
北門方面への通路、この近くで蛇に遭遇… 土塁 北門方向を臨む  北門 
     
ビジターセンターに戻る途中の見晴台より瀬戸内海・四国方面を臨む  
  
アクセス
JR吉備線服部駅から6km(徒歩約1.5時間~2.0時間)
JR吉備線総社駅からタクシーで、約20分でビジターセンターへ(駐車場)
料金は約2,000円強か(2013.5時点)。
新説温羅伝説:民話桃太郎のなかで温羅が悪人で鬼として描かれ、吉備津彦命が英雄として書かれている。最近吉備路方面で語られ始めたという新温羅伝説では、吉備の国に、ある時、朝鮮半島から大きな船がやってきて、聞けば戦いに敗れて逃れてきたとのことで、吉備国は王子及び技術集団を快く受け入れた。当時、吉備の中山は瀬戸内航路の中継地点として都へ行き来する船が往来した。彼らは先ず防衛のための山城造りに取りかかった。朝鮮半島からの侵攻を恐れたからである。朝鮮式の古代山城にならって、標高400mの山頂に同じ様式の城を築き、周囲に城壁を廻らせた。これが鬼の城のルーツである。百済の王子一行がもたらした、優れた製塩、製鉄技術により政治的・軍事的勢力を増してきた吉備王国。そこで地元の娘を娶り吉備国の首領となった百済の王子温羅は、民衆から親しまれるようになってきた。一方全国平定を目指す大和朝廷にとっては面白くなく、吉備津彦命を派遣した。百済より伝えられた製鉄技術は当時は極めて貴重な、有効な技術であった。吉備高原や中国山地で採れた砂鉄は城の真下の谷まで運ばれ、精錬炉・炭釜を使い、盛んに製鉄が行われるようになった。製鉄農具は吉備の沖積平野の開発を進めた。

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