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柏の城(志木城) 埼玉県志木市柏町  2016.12.11 訪問お知らせ


 〜 築城主:大石顕重(あきしげ) 築城年:不明(室町中期) 主な城主:大石氏、福山月斎 廃城年:豊臣秀吉の小田原攻めの際に落城した後、徳川家康の家臣の福山月斎が居住した。 主な遺構:大堀跡 〜
  この辺一帯を遺跡とする柏の城は、木曽義仲の子孫で武蔵屈指の豪族大石氏が室町中期に造った居館である。そして京都聖護院の門跡道興准后(もんせきどうこうじゅごう)が文明18年(1486)から翌年にかけて関東各地を巡歴した際の紀行歌文集『回国雑記』に見える「大石信濃守といへる武士の館」とされている。ここで言う大石信濃守とは大石顕重(あきしげ)のことで、本城は現八王子市の高月城だった。顕重以後の城主は定かではないが、大永年中(1521〜1525)に修築が行われ、本丸(運動場のほぼ中央)、西の丸(長勝院境域)、二の丸(脇道に沿った校地の一角)、三の丸(前の市道を背にする一帯の宅地)備えるに至ったと伝えられる。
 その後、大石氏は北条氏康に服属したが、天正のころは、大石越後守直久が城主だった。直久は顕重の曽孫大石貞仲の長男で、天正9年(1581)から北条氏の指令に基づき、駿河国獅子浜城の城代となっていた。柏の城が豊臣勢に攻められて落城したのは、武蔵国のほかの諸城と同じ時期の天正18年(1590)。徳川家康が江戸へ入府すると、家臣福山月斎が新しい地頭として、この城地に居住した。
(志木市教育委員会が志木第三小学校に設置の案内板「史跡 柏の城跡」より)
東武東上線「柳瀬川」駅東口から柳瀬川方向へ少し歩き、柳瀬川の堤に沿って北東へ歩く。   柏町3丁目の志木第三小学校を目指す…  
 
柳瀬川の堤を歩く…約20分程度で旧本郭の小学校に到達する
 
「大堀跡」と思われる…マンションのベランダ側でありフェンスで区切られていて中には入れない。  左の堀跡と思われるところは、下の写真の大堀跡の説明のところの延長部分に当たるのでは。
  
この説明板にある縄張図的な図面を抜粋
下に拡大して引用させてもらった…
 
志木第三小学校あたりが本郭、その東側に二の郭、市道を挟んだ南側に三の郭、長勝院のあった辺りに西の郭が築かれ、南から東への平地に大堀を掘って、その南側を追手(大手)としたと言われている(右上の写真説明より) 
    
 本郭方向へ降りてきた…上の写真の本郭の大堀は、この写真の右側部分の道路だろう  上の写真の「現在地」のところ…この道路が大堀跡ということになる。左側の突き当りがちょっと前のマンション前の部分
旧本郭の「第三小学校」校門…このすぐ左に下の写真の説明板と標示柱が
 
冒頭の説明に引用させてもらった「柏の城跡」の説明板… 「史跡 柏の城跡」の標示柱…
 
旧本郭の堀跡に沿って西方向へ歩く。この建物も第三小学校の一部…
 
 ここは長勝院の境内であり、左奥に墓地が見える。現在では寺院そのものはなく、志木市営墓地との標示柱がある。このお寺の創建年代は不詳だが、平安時代にこの地を領した藤原長勝の居館があったと言われている。下の桜は「長勝院旗桜」と言われ、推定樹齢400年以上のハタザクラとの説明があった(左の写真)…
     
「柏の城西の曲輪跡」説明板…
 
 志木市立第三小学校正門か… 第三小学校から、柳瀬川堤防方向に向かった際、城山貝塚と表記ある場所に出た…道路挟んですぐ右に志木中学校が(この辺も旧城域だたと思われる)
     
 右に志木中学校が…
 
アクセス
東武東上線「柳瀬川」駅東方の柳瀬川沿いに城跡があり、柳瀬川駅東口から徒歩約15分程度か

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