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地域・都道府県別年代別日本百名城国宝・世界遺産現存天守12名城

亀居城 広島県大竹市  2014.6.25 訪問お知らせ

 〜 築城者 福島正則 築城年 1608年 主な城主 福島氏  廃城年 1611年 遺構 天守台、曲輪、石垣、土塁、堀切 指定文化財 市の史跡 〜
慶長5年(1600)、関ヶ原の合戦に敗れた西軍の盟主毛利輝元は、領国8ヶ国の内、防長2ヶ国を与えられれ、その本城を去り、東軍に味方した豊臣恩顧の武将福島正則が芸備2ヶ国を与えられて、そのあとに入りました。広島に入った正則は直ちに領国の経営に乗り出す一方、小方・三次・東城・三原・神辺・鞆に支城を置いて守りを固めました。このとき、小方の城将にはには甥の福島伯耆(ほうき)(1万石)を配備して、慶長8年(1603)から築城をはじめました。築城に際しては、水野次郎右衛門が総奉行、片尻飛騨が大工棟梁として指揮に当たりました。5年の歳月を経た慶長13年(1608)にこの城は完成しましたが、不幸にして城将城将福島伯耆は完成の前年他界したので、これに代わって守将山田小右衛門、森佐助の両名が兵を率いて入城しました。海に面したこの城の規模は、面積10町歩(992アール)、周囲18町(1960m)におよび、山頂に本丸、これに二の丸、三の丸、有の丸、なしの丸、、松の丸、名古屋丸、捨の丸の8台が続き、本丸と有の丸の横に詰の丸。その下に鐘の丸、妙見丸があって、合計11台よりなり、また、海に面しない部分の周囲には、新町川の流水や海水を導入した堀や、から堀りが堀りめぐらされていたといわれています。なお、この城が亀井城と称されたのは城地が亀の付した形に似ていたことに由来します。かくして亀井城は広島本城の支城として、毛利氏に対する軍事的見地から脚光を浴びましたが、この頃、正則に対する幕府の圧力は非常に厳しく、完成後間もない慶長16年(1611)この城は取り壊される運命となりました。(大竹市教育委員会が現地に設置の案内板「市指定史跡 亀井城跡」より)
大竹駅の前の説明版より抜粋。大竹市のバス、大竹幹線バス(こいこいバス)で、小方公民館バス停へ。そこから、徒歩で約10分で、亀居公園へ。バス停から真っ直ぐ北に歩いて、山陽本線のレールを超えるとすぐ!
 
大竹駅の改札口  大竹駅前広場…   駅前に設置の、大竹市の
シンボル「鯉のぼり」
 大竹駅  大竹駅のこいこいバス乗り場  小方公民館バス停側の案内標示柱
     
 亀居城址の説明 こいこいバス「小方公民館」バス停  亀居公園への道…
     
  JR山陽線を跨ぐ「跨線橋」の上から撮影…前方が大竹駅方面  公園入口の傍にあった案内図
   
  亀居公園の入口的な階段…
 
 「名古屋丸」…石碑が見える 名古屋丸…先ほどの階段といい、この名古屋丸も雑草伸び放題…
松の丸近くの石垣群 松の丸…
     
 「有の丸」か…
 
 有の丸及びその説明 作詞家の石本美由紀氏が大竹市出身ということで、亀居公園にも「石本美由紀 詩の坂道」として、あちこちに歌碑が立つ。同氏は1924年生まれの男性。ジャンルは演歌で、「港町13番地」とか「悲しい酒」など、美空ひばりに多くの詩を提供している。
     
 なしの丸
 
なしの丸  
     
 松の丸へ降りる道 三の丸への通路  二の丸への通路
     
三の丸  詰めの丸(西側井戸跡)  本丸部分を下から見る
 二の丸から本丸へ  本丸、天守台を見上げる 本丸への入口、虎口(枡形)
     
 枡形虎口 本丸の標示柱
     
 本丸上で北側を見る… 天守台(右側)立ち入り禁止であった
     
 天守台(右部分)
 
アクセス:JR西日本山陽本線大竹駅より「おおたけ幹線バス」(こいこいバス)で約15分。小方公民館下車徒歩約10分
※「亀井城ー広島県大竹市」をYouTubeにアップしました。You Tube のページ(こちら)からご覧ください
                  

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