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 地域・都道府県別 年代別日本百名城国宝・世界遺産現存天守12名城

広島城 広島県広島市中区基町 2014.6.24 訪問お知らせ

 〜 築城者 毛利輝元 築城年 1589年 主な城主 毛利氏、福島氏、浅野氏 廃城年 1874年 遺構 石垣、堀 再建造物 大天守、平櫓、多門櫓、太鼓櫓、表御門 国の史跡 日本100名城 〜
 戦国時代に毛利元就が安芸国守護の武田氏を滅ぼし、厳島の戦いで大内氏に勝利したことにより、以降毛利氏によって支配されることになった。それまでの毛利氏の居城であった吉田郡山城は、尼子氏の大軍を撃破した経験を持つ堅固な山城であり、山陰・山陽を結ぶ場所に位置するため、戦国時代の毛利氏には適していた。その後、中国地方9か国120万石の太守であった毛利氏にとって、山間部の山城である吉田郡山城は手狭なものとなり始めた。そこで、海上交易路である瀬戸内の水運が生かせ、城下町の形成が可能な平野がある海沿いに拠点を移すことになった。1589年2月、輝元は各地を検地結果、五箇村に築城することに決めた。完成当初は、堀は三重に巡らされ、馬出を多数揃える実戦的な城構えで、当時の大阪城に匹敵する規模の城だったと言われている。しかし関ヶ原の戦い後減封され、1600年福島正則が城主となった。福島氏時代、城の整備及び城下町づくりが本格的に行われた。この大規模な城整備と城下町造りは徳川家康を怒らせ、1609年正則は謹慎を言い渡された。さらに、1619年、正則は洪水による修復が幕府から無届改築ととがめられ、信濃国川中島へ転封された。その後浅野氏の居城となり、明治時代に至るまで12代約250年間続いた。1598年に創建された大天守は、1945年の原爆による倒壊まで現存天守のなかでは岡山城に次ぐ古式を伝えるもの。名古屋城、岡山城とともに日本三大平城ともいわれる。(参照 ウィキペディアより抜粋・編集)
 現地の案内板 現在地のところから入り、大本営跡〜天守閣〜本丸下段〜中御門跡〜二の丸(太鼓櫓、多門櫓、平櫓)を経て、表御門〜御門橋のルートで歩いた
 
裏御門跡へ… 裏御門跡の手前に建つ城址碑 城址碑の右側の堀を見る
     
 左側の堀…  裏御門跡のところの石垣 
     
 振り返って裏御門跡を見る  城郭内部の配置図…大本営跡の傍の案内板に
   
大本営跡
 
昭和32年、広島復興大博覧会に際しての復元を決定。
同年10月着工、翌年3月に竣工した
  
天守望楼
    
天守望楼から内堀を見る
 
望楼よりの眺望年
     
   天守閣の礎石群(左)とその説明(右)…天守閣再建時に礎石をここに移した
     
 中御門跡…枡形の形状?  中御恩跡の石碑 中御門跡を出て右側の堀を見る
     
 左側の堀 御門橋への土橋 左、本丸へ、右表御門
     
 左本丸の石柱標示  中御門跡の枡形虎口 二の丸南東隅の太鼓櫓
     
     
 二の丸多門櫓  平櫓・表御門(櫓門) 
     
 被ばく石垣石
 
 表御門は城門の最も格式の高い櫓門。船肘木(ふなひじき)を持った古式な造り。
二の丸表御門は1991年に御門橋と共に創建時の姿に復元された。
     
 門を出てすぐ右の堀 御門橋越しに表御門を見る 
    
 御門橋
 
 御門橋から表御門  マナー広告?!
     
 アクセス:広島駅から:
徒歩 約25分(広島駅前〜栄橋〜縮景園前・県立美術館前〜裏御門跡〜広島城天守閣)
バス 広島駅南口前バスのりば Bホーム7・8・9番のりばより合同庁舎前経由のバスで約7分
   合同庁舎前バス停で下車、北西へ徒歩約8分
市電 1・2・6番電車で約14分、紙屋町東電停下車、北へ徒歩約15分
 
※ 「広島城ー広島県広島市」をYouTubeにアップしました。you Tube のページにジャンプしてご覧ください 

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