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 地域・都道府県別年代別日本百名城国宝・世界遺産現存天守12名城
東方城 埼玉県深谷市東方 2018.10.15訪問
 〜 築城者 不詳(上杉氏?) 築城年 不詳(小田原の役以前?) 主な城主 深谷兼永(北条家臣)、松平康永(徳川家康家臣) 遺構 土塁、堀、郭 廃城 1602年(慶長7年)松平康永の移封により
東方城は深谷市東方にあり、低地に臨む櫛挽台地の先端部に位置します。大里郡郷土詩にば、大正8年頃の様子が「平地よりやや高き丘を成し、下に城下沼を控え眺望佳成。里人城山と呼び、深谷深谷上杉の家人の居城なりしと云えど、其何人なりしか伝えず。と記されています。北方の沼地や水田に向かった突き出た台地の縁にあり、深谷上杉氏支配下の城でした。「矢井伊勢守重家の弟、若狭守重任が東方城預かる」という資料も確認されています。深谷上杉氏は関東管領山内上杉氏の一族です。14世紀後半に、はじめに庁鼻和上杉氏と称し、庁鼻和の地に拠点を構えていたとされます。関東管領方と古河公方方との抗争が激しくなる15世紀中ごろには深谷城を築き、そこを本拠地としました。先の資料から、東方城には城代が置かれていたと思われます。豊臣秀吉の小田原征伐による深谷城開城、徳川家康の関東入国後、1590年に深谷城へ松平康直が一万石で、東方城には松平康長が一万石で入城します。1601年に、松平康長は上州白井城二万石に移され、東方城は廃城となります。現在も土塁と堀の一部が残る他、「御所屋敷」「城主別邸」「お姫屋敷」「仲間町」などの地名や伝承地が見られます。東方城跡の東には、松平康長が中興開基し菩提寺とした金久院があります。また、西には、深谷上杉氏の時代から崇敬されてきた熊野大神社があります。
                      (現地に設置の案内板「「中世の城跡 東方城跡」より。)
 現地案内板には適当な縄張図がなかったので、今回も、余湖クンのホームページ「東方城」より縄張図を拝借しました。 JR籠原駅…ここが東方城への最寄り駅となる。 
     
 さくら保育園を遠くに見る…この辺も旧城域だったと思われる。保育園の裏側の森のようなところが残存土塁の一部だろう。
 
土塁があったとも割れるこんもりした森のようなところ。地元の人に聞いたところ、こちら側からのアプローチは無理で、以前あった土塁も今ではわからないだろうとのことだった… 保育園の駐車場に入ってきたときに見つけた土塁のような部分…確証はないが、恐らく、土塁の残存だろう。  
     
 北側の道路に面した藪の中に、「牛頭観音」と記された石柱があった…薮化しているがここも郭の一部だったと思われる。
 
 郭の一部と思われる薮化したところ…  (左の写真)御所屋敷東側の土塁及び切通しの道。この通路の途中にあったゴミ集積場所が一つの目印。ゴミ置き場を経て、左(この地図では)に曲がると、右の写真尾畑が消えてきて、そして下の写真に続く…
     
 右上の写真の通路を真っすぐ南方向に向かうと、下写真の標示柱があった…この場所から郭内に入る。
     
 上の写真を南方に行って、来た方向を振り返り見る…
 
左上の標示柱のすぐ左のところから郭内部に入る…入ると意外に歩きやすい。樹木・藪がなければ、立派な郭だろう。 道路から郭内に入って振り返り見ると、縁の土塁が見える…
     
左上の写真の続きに当たる部分…
 
 郭内の土塁上を歩いた…一部しか残っていないが立派な土塁だ。 郭内部を少し歩く…竹で作った何かがあった!何だろう?
     
 少しくぼんだ部分…堀の残存か?
 
ここでも少しくぼんだ部分を発見…この先は郭の終わりで、かつて水路があったと思わせる溝があった(すぐ下の写真)。もちろんこれはコンクリート壁の現代のもの。   左下の写真の手前の土塁状の部分… 
   
側溝のようですね!
 
 最初の鳥瞰図の、「城址標柱案内板」と記されている切通し…現在では案内板は移動されていてここにはなかった。  上の写真の、郭の南方向を薮越しに見る…県道の地下通路が見えるが、この道を通って保育園方向に回った
     
 ここに案内板があったようだ…背後は土塁だろう。
 
 最初に入ってきた、通路に戻ってきて、振り返り見る。…この先に標示柱がある。  御所屋敷横の切通し部分から、城主別邸方向への通路を見る…この秋は個人の所有地が多く、城主別邸の「東方城土塁」も個人の住宅の背後にあることから、敢えて、接近しなかった。 
     
 最初に見た「午頭観音」の石柱があった薮…
 
アクセス:JR籠原駅からタクシーが無難か?
 

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