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浜松城 静岡県浜松市中区 2013.8.2 訪問お知らせ

 ~ 築城者 今川定相? 築城年 永正年間(1504~1520年)? 主な城主 飯尾氏、松平氏、堀尾氏、井上氏 廃城年 明治4年(1871年) 遺構 石垣、曲輪 再建造物 模擬天守 ~
 浜松城は徳川家康が遠州攻略の拠点として築いた城で、元亀元年(1570)6月に入城し、17年間在城した。東西600m、南北650mの規模で、南の東海道に大手門が開き、東から西へ三の丸、二の丸、本丸、天守台と連なり、順次高さを増す。家康の後、城主は代々譜代の大名が勤め、在職中に老中まで栄達した人が多い。中でも水野越前守忠邦の名前がよく知られている。石垣は野面積みと呼ばれる堅固な作りで、古い石垣の特徴をよく残しており、浜松市の史跡に指定されている。家康の生涯最大の敗戦ともいえるのが元亀3年(1572)の三方が原の合戦。武田軍2万7千に対する徳川1万2千。天下に名をとどろく武田騎馬軍団に多勢に無勢で、無残に敗走することになった。(現地設置の案内板及び入城時入手の資料より)
浜松城公園の案内図。ここに記載ある市役所、元城小学校も旧城域。この地図の現在地のところから入城した。 「家康の散歩道」と称して、あちこちに案内標識が設置。本丸・天守閣はここから左に160mほど。
    
天守閣に向かう途中の石垣がこれから続く… 
 
石垣、石垣… 浜松城の石垣は自然石を上下に組み合わせて積み上げる野面積み。一見崩れやすそうに見えるが、奥が深く内側に小石や砂利を詰めてあるため水はけもよく堅固である。浜松市内の大草山、根本山、湖西市などの産の珪岩で浜名湖や佐鳴湖などの水路を使って運ばれた。    安政年間古図 ここの現在地が1枚目の現在地にあたる。元城小学校が「二の丸」地点。  
    
   
   
天守閣は鉄筋コンクリート製模擬・1958年再建
      
天守台の穴蔵と呼ばれる地下にある石組井戸。井戸は天守台の穴蔵に1、天守曲輪の埋門脇に1、本丸に1、二の丸に3か所ある。  
 ご当地キャラ、家康君  浜松城天守門整備工事が進行中
浜松城公園歴史ゾーン整備イメージ図
 
       
この看板の後方が「八幡台」で、天守台より高い。面積はおよそ40㎡あり、浜松城の中で最も高いところ(41.9m)。 この石垣は家康築城の頃の約400年前の貴重な石垣ですとの表示 天守門整備工事、左が平面図と立面図
 この辺の石垣もすべて趣があるね! 
本丸 浜松城では、天守閣の東約17m下に造られた。周囲を石垣で囲み、南に正門である鉄門があった。北には富士見櫓、南東の隅には二重の菱櫓を置いた。   若き日の徳川家康の銅像 元城町 東照宮 明治17年に、旧曳馬城の地に創建された
元城町東照宮 家康の散歩道案内図 犀ヶ崖古戦場 三方が原の戦いで負けた徳川軍が浜松城へ逃げ帰る一方、犀ヶ崖に布でにせの橋を架け、追ってきた武田軍の背後から大声をかけて鉄砲を撃ちまくると武田軍は織田の大軍が来たと思いこみ先を争って布橋を渡り。谷底へ転落して多くの戦死者を出したといわれている。
       
 本多肥後の守忠真顕彰碑 本多忠真は見方が原の戦いで武田軍に大敗した徳川軍の中にあって、撤退に際し殿(しんがり)を買って出た。武田勢の中に刀一本で切込み、この地で討死したと伝えられている。明治24年に本多子爵により建立された。  浜松駅への道…   JR浜松駅
     
アクセス:JR東海 東海道新幹線・東海道本線浜松駅より徒歩20分位

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