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地域・都道府県別年代別日本百名城国宝・世界遺産現存天守12名城

月山富田城 島根県安来市広瀬町富田  2014.9.3 訪問お知らせ

 〜 築城者 藤原景清?(佐々木高綱やその弟義清?)築城年 長寛〜文治年間?(1156-59) 主な城主 尼子、吉川、堀尾吉晴  廃城年 慶長16年(1611年) 遺構 石垣、郭、井戸、堀切 指定文化財 国の史跡 再建造物 石垣、侍所 〜
富田城跡は、島根県安来市広瀬町に残る、この地方を代表する広大な中世山城跡です。富田城の始まりは、12世紀の後半、源頼朝が出雲の守護として佐々木義清を任命したこととされますが、尼子家三代の戦国武将によって富田城は最盛期を迎え、江戸時代の初期まで富田城は多くの変遷を繰り返しました。尼子氏は大内氏、陶氏、毛利氏との戦を繰り返しながら、因幡、岩見、備後など11ヶ国にも及ぶ広大な領地を拡大しました。しかし、その尼子氏も毛利元就に攻められ、1年半ものあいだ富田城に立て籠もっていたにもかかわらず、富田城は毛利氏の手に渡ってしまいます。1600年関ケ原の戦いで徳川家に敗れた毛利氏は富田城を追われ、替わって徳川家康に味方していた堀尾吉春が富田城に入りました。しかし山奥にある富田が出雲支配に不便なことから、堀尾氏は城を現在の松江城に移してしまいます。難攻不落と言われ、数々の武勇を生んだ名城富田城は、その後二度と城として使われることはありませんでした。城跡は、東西約1,200m、南北約 1,200mの範囲に縄張りされた総面積約140万uの日本でも最大級の規模を持つ城跡です。自然の幾重にも重なる山や谷を利用して、前に流れる富田川を堀として尾根や山頂に主要な郭を置いています。(現地に設置の案内板より抜粋、編集)
JR山陰本線安来駅(左端の写真)、止まっている黄色いバスは安来市が運営する、「広域生活バス」通称「イエローバス」これで、道の駅「富田城」(中央の写真)のバス停「月山入口」(右端の写真)へ。…ご覧のように運行本数が少ないので、一つ手前のバス停「市民病院」で降りて、約10分歩いて登山口まで来るのが便利!
 「安来市立歴史資料館」…道の駅の一角にある。水曜定休日なので要注意! 登山口、「御小守口」近くにあった案内地図より。…太鼓壇→花の壇→山中御殿→七曲り→三の丸→二の丸→本丸 の順に回った。 
  
 登山口…御小守口より入山
 
 御小守口登り口のところの道標  太鼓壇公園・月山山頂の道標  整備された階段より「千畳平」、「山中鹿介銅像」、「山中御殿」への距離が標示…道標がよく整備されている。
道の駅にあった富田城の鳥瞰図
    
 太鼓壇(千畳平)…尼子経久の頃太鼓をつるして、時刻を告げたり、また攻め太鼓として鼓舞した。 尼子神社 尼子三代城主及び尼子十勇士の霊を祀る。
(昭和9年広瀬町商工会が建造)
右側が太鼓壇…左の建物はトイレ 山中鹿介銅像…尼子氏は、毛利に滅ぼされた後は、尼子再興のために尽力して、秀吉の毛利攻めに際しても、上月城の守備に当たったが毛利郡の猛攻により落城、鹿介は備中松山城への護送の途中に暗殺された。
奥書院60m、花の壇復元建物320m、山中御殿 580mの標示が…  道はわかりやすいがこの辺から雑草が生い茂ってきている! 奥の書院跡…
 花の壇復元建物190m、山中御殿 420m、そして本丸まで960m… このような細い道を歩く… 左側は土塁のようにも見える?
     
 花の壇 奥に復元建物が見える  復元建物及びその内部
     
花の壇の名前の由来及び、
花の壇の目的・用途などの説明…
建物裏手に回ってみた…   この雑草に埋もれた道を降りる 
     
下の道に降りて復元建物を見上げる  通路跡…説明は右の写真参照  
     
 右「山中御殿」、左「花の壇」の道標  山中御殿左側(北側)に上がる階段 
     
 階段を上がったところ…   この右側に山中御殿…
     
 多門櫓横の石垣…  多門櫓跡の標示
    
 雑用井戸…軍用井戸とか他にも井戸はいくつかあった。 
 
 櫓跡・菅谷口の標示柱  本丸への相坂階段コースに通じる階段…別の軍用道コースを使い登城した。 
 塩谷口…雑草が生い茂り近づけない! 石垣の上の通路
  
 狭間堀跡の標示柱…この向こうに堀らしき跡がある。
 
塩谷口との標示柱  御殿平(山中御殿)…石垣とその前に説明案内板が
 御殿平(山中御殿)…富田城のもっとも重要な心臓部だった。3,000uの余りの平地で、昔山中御殿と呼ばれた建物があった。  軍用道への通路
   
 本丸への道(軍用道コース 610m)
 
 ここから月山軍用道に入る   七曲りと呼ばれるつづら折れの階段が続く(やっと山城らしい雰囲気)
     
 親子観音 堀尾家お家騒動の首謀者とされ処罰された堀尾河内の守の子(堀尾勘解由)のものと推測される。慶長13年の建立か…との説明版が。  三の丸、二の丸、本丸へのつづら折れの道を進む…
       
七曲りの道をひたすら歩く…  山吹き井戸とそのの説明… 
左三の丸の標示… また、暫し階段登り道 左の階段を上って二の丸へ…
     
 二の丸の石垣…  三の丸から二の丸への階段
…階段が見えますよね?
 登りきると、鳥居が見えてきた… 
     
 ここからへんが三の丸…  三の丸の続きがここ二の丸…長いところで約20m、短いところで約15m、との説明が!  二の丸からの景色…前方に中海、左の山が京羅木山、右が独松山  
     
 来るときに渡った新宮橋。
この川は飯梨川(富田川)
 
 向こうに見えるのは本丸…本丸と二の丸の間は堀切  二の丸上の休憩所と
本丸・山中御殿への案内板
 
     
 この階段を降りて下の道へ! 右が二の丸… 奥に本丸が見える… 
     
本丸の土塁を見る…ここの堀切は本丸側が土塁で二の丸側が石垣のようだ   こういう石垣もいいですね!ほとんど雑草でおおわれている… 
    
 二の丸…本丸に上がって見る
 
 本丸の広場…見晴らし台的に城下を見下ろせる!  山中鹿介幸盛記念碑 
     
 勝目高守神社…保元平治の乱(1156-1159)平塚の武将藤原景清が出雲に入り、月山に築城するにあたりお社があっては畏れ多いと里宮を移したのが富田八幡宮(矢立の松の伝説)。現在山頂の勝目高守神社は里宮に対して奥宮。(安来市ガイドマップより)
     
 二の丸の石垣と本丸の間の堀切! 
    
 再び山中御殿に降りて、ここから厳倉寺方向へ向かう(登山時は花の壇などの別ルートで来た) 
     
 真言宗 厳倉寺・観音寺へ向かう 堀尾吉晴の墓へ…
     
堀尾吉晴の次女の小那姫の墓が、この厳倉寺にあります。小那姫は婦人病を患った
ことを苦 にして、20歳の若さで自殺したと伝えられています。
     
 堀尾吉晴の墓 関ケ原の戦功により雲隠24万石を領し、富田城主になったが慶長16年城を松江に移した。同年6月69歳で亡くなり、遺言によりこの地に帰葬された。 山中鹿介幸盛公供養塔   赤門 富田橋を渡ったところにある、厳倉寺の門で、富田城への登城口。
     
 赤門のそばに立つ「富田城跡」の碑    城安寺  城安寺は広瀬藩松平氏の菩提寺。臨済宗南禅寺派の禅刹。成和年間(1312-1316)の開基。所蔵の富田城下町絵図、尼子十勇士絵巻は有名。
     
アクセス
JR山陰本線安来駅よりコミュニティーバスで約25分「月山入口」下車、
一つ手前の「安来市立病院」までは本数も多いので、こちらから、登山口まで徒歩10分が便利
※「月山富田城ー島根県安来市 〜尼子氏が本拠を構えた難攻不落の山城」をYouTubeにアップしました。こちらからご覧ください。
                  

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