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深見城 神奈川県大和市深見字城ケ丘 2019.10.28 訪問お知らせ


~ 築城主:山田経光との説があるが不詳 築城年:不詳、宝徳4年(1452年)との説 主な城主:山田氏? 廃城年:不詳 主な遺構:郭、土塁、横堀 ~
 深見城跡は、境川に面した台地上に築かれています。北側から東側は切り立った急崖となっており、境川との比高差は15m位あり、天然の要害となっています。西側は天竺坂の大規模な掘割り、そして南側は平坦地形を加工して曲折を多用した二重の堀と、土塁構造が密接に連携した東西2つの虎口(門・出入口)などを構築し、要害地形を形成しています。この縄張り構造は歴史遺構上、高い価値をもつものです。発掘調査の成果から、この城の利用は14世紀末頃より16世紀末頃までの年代幅の中にあることがわかりました。一方、現存の城跡の構造を見ると、軍学による城制に整合することから16世紀戦国時代と思われます。(大和市教育委員会が現地に設置の説明板「深見城跡」より)
小田急線「鶴間」駅(右上の写真)から東方向へ約20~30分ほど歩くと、深見城跡の手前に下水処理場が左側に、そして右側には「深見歴史の森」が見えてくる。近くには「長堀南遺跡」(北部浄化センター内)の標示版があった。下の縄張り図の現在地のところから、先ずは、左端の堀底道を境川方向へ歩いた。
 
下の案内板より縄張り図を拝借…この説明文は冒頭の説明に拝借した。
現在地の場所から、北に向かってやや傾斜している堀底道を進むと、その先は境川に通じる。通路の途中に「天竺坂」との標示石柱を発見…石柱の説明版「深見城築城の際に作られた空堀にあたる道。この坂と交差する南北方向の道は鎌倉古道と呼ばれ、市域では公所から境川右岸を川沿いに南下し、藤澤宿に至り東海道に合流していた古道です。右の写真は、この石柱から振り返り堀底道を見たもので、右側に土塁が残っているのが分かる」。
「天竺坂」の標示柱より先の境川方向を見る…
 
途中の通路の土塁を左に見て… 左下の車止めから、来た方向を見る…左側に城域(主郭方面)が展開する。
  
通路の端に車止めが…この先が道路で、その先に境川。
 
 降りて来た通路を戻り、東側にフェンス越えで入った。ここは主郭の一部らしく、結構まとまった削平地が見られる。南側は少し段丘状になっている。  先ほどの通路の端まで行って、道路越しに境川方向を見る…
    
 ここも削平されている…主郭の一部だろう。
 
 最初に降りてきた「天竺坂」の標示柱のあった通路に戻り、虎口的な場所から郭内部に入る… 
    
 右の写真の通路を東方向に行くと削平地が…郭の一部ですね。
 
少し高くなっている郭の上から、南側の空堀を見る。 
     
 北側を見るときれいに削平された郭…
 
最初の、案内板があった処の通路のところに出た(左端の写真)。ここから道路に出て、東方向に行くと右の写真の入り口部分にきた。この通路を北側に進み、城域への入り口を探す…
       
右の写真の、左側部分…かなり緩くなっているが空堀の残存か。    縄張り図の、東虎口のところの空堀を跨ぐ通路か?土橋だったか?…この通路の上の土塁は結構高い。実は、東虎口に当たる部分か。あるいは、その手前の空堀のところか正直判断困難でした。この上には削平された郭が広がるのは確認できた。 
     
 こちらは、右の写真の堀底から右側の空堀を見たもの。
 
右上の写真の、空堀を上がって削平地(郭)に出たところ…結構広いエリアとなっている。主郭の一部か?
     
空堀…境川方向に続いているようだ。 
 
 緩い空堀底道を西方向へ歩く… 虎口のように見える…それらしきところが見つからないので、ここが西虎口かと強引に思うことにする。右の方は主郭と思われる場所(地図参照) 
     
 右上の写真の通路を西方向へ歩く…
 
突き当りに、最初に通った通路(天竺坂の標示柱があった通路)に来た…  大和市保険福祉センター(鶴間駅から北方向へ徒歩約7分の場所)の前の通りに面して設置されていた案内板より抜粋…在りし日の深見城の全容が窺える。 
   
交通アクセス:小田急線「鶴間」駅から、徒歩約20-30分。
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