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 地域・都道府県別年代別日本百名城国宝・世界遺産現存天守12名城
  富士見城 長野県小諸市諸字飯綱山  2014.8.6 訪問
 〜 築城者 不明(大井光長?) 築城年 不明(文永年間 1264〜1275 ?)遺構 堀切、土塁、郭、石積 〜
富士見城はこれまでの研究で、戦国時代の終わり頃には造られていたものと考えられています。中世の時代は普段生活する場(根小屋・居館など)と戦闘の際に使われる城・砦とが別々になっており、富士見城も常時人が生活していたものではないと思われます。天文年間(1532年〜1554年)、甲州の武田氏が佐久地方へ進出した頃には、佐久地方統括の拠点である小諸鍋蓋城(小諸城の前身)の支城として整備され、ある程度の石垣が積まれたとも考えられています。武田氏の滅亡後(天正10年=1582年)には、徳川・上杉・北条の諸氏が信州を取り合う中、西に隣接する小県地方に勢力を持つ真田氏が一時在陣したと言われています。飯綱山は全体が岩山であり、至る所に石があることから、ほとんどの郭が石積みによって区画されています。この石材は飯綱溶岩と呼ばれ、市内では飯綱山だけに分布しています。広大な削平地や急斜面に驚くほどの石垣が残されていますが、そのすべてが城のものとは思えず、地域の特定は困難な状況です。しかし、県内でもこれだけ石垣が多用されている城跡は特異な例と言えます。(現地に配布されている説明、「富士見城跡について」より)
 ※ 小諸城訪問を目的として来たが、偶々、富士見城址の存在を知り、急遽訪ねた。予想に反して、見ごたえのある遺構の連続であり、眺望も抜群でした。願わくば、各種観光案内、ホテルなどの案内で、本城の概要ぐらいはパンフレットなどで広く広報されたらいかがでしょうか。…本HP作成に当たり、小諸駅前の観光案内所で頂いた情報・説明には感激でした。また、そこで紹介いただいた、「中世城址 富士見城」(小林孝吉氏著 文芸社)を参考にさせていただきました。
高峰山の広大な南斜面にできた飯綱山の山頂に立地。小諸高原美術館の北西側の駐車場横に、「歴史の広場」として整備されており、その入口(右の写真)にあった「総合案内図」より「縄張り図」を参照ください…
     
 飯綱山の尾根の上が郭群で、多くの帯郭が配置されている。…この辺は「百間馬場」(約200mの直線馬場があった)左側に旗塚(狼煙台)。
 
 旗塚の標示…この辺に、約3mおきに18本あった由)岩村田本城等の各城との連絡用であったと言われている。 「案内図」にあった、「富士見城施設案内図」…左から物見櫓、木橋などとあるが、公園化に際して改変・創作されている嫌いがある。
   
 五の郭辺りか…城の東限で木戸などがあったのでは?
左(右の写真)が野鳥の森駐車場への道
 
 四の郭の標示…三の郭との間に堀切があった筈だが確認できず
 堀切と木橋 本城で最も大きな堀切。
…当時は土橋だったのでは?
 遠くに、三方ヶ峰、高峰山、黒斑山、浅間山の2000m級の山並みが続く。ここに、歴史の広場の標示柱があり、左に入ると本丸に続く堀切・木橋が…
     
 木橋上から、左側(南側)を見下ろす
 
 木橋上から右側(北側)の堀底を見る…堀切3 の標示が見えますか? 左側に、二の郭の土塁が続く… 二の郭に通じる道、二の郭へ向かう
 本丸(主郭)…山の最高所にある、長方形の郭 主郭の北側を見下ろす
…上信越道が見える
     
二の郭…子供たちが遊んでいた。公園としてはよく整備されている
 
 二の郭の東側土塁(2m程の高さ)  二の郭西側の石塁… 三の郭西側の石塁… 
     
 三の郭遠景…東側方向を見る。最も広い郭、物見台などが見える
 
  三の郭の標示が…  三の郭の石垣…遠くに見えるのは北側の山並み。
この半円形の郭を囲んで2〜2mの石垣が取り巻いている。
     
  三の郭の周囲の帯郭の石塁…
 
 三の郭の石垣を帯郭側から見る…  これも三の郭下の帯郭の石塁…  三の郭の物見台的な建物…
     
 主郭と二の郭を仕切る堀切、堀切4(浅い堀切)と石積み…  再度、主郭を経由して、小諸高原美術館方向へ戻る。
上信越道はこの城址の下を一部通る
     
 小諸高原美術館内にあった「富士見城跡」案内板より…
 
アクセス
JR小海線・しなの鉄道「小諸」駅より、小諸高原美術館へタクシーで約8分(約1,400円 訪問時)
※「富士見城ー長野県小諸市」をYouTubeにアップしました。こちらからYou Tube のページにジャンプして、ご覧ください。

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