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大野城(筑前国) 福岡県大野城市宇美町  訪問  2014.10.13お知らせ

 〜 築城者 大和朝廷 築城年 665年 主な城主 不明 廃城年 不明 遺構 石垣、土塁、門跡、礎石群 指定文化財 国の特別史跡 日本100名城 〜
 大野城は、大宰府北方の標高410mを最高峰とする四王寺山一帯に築城されました。頂上域全体を囲むように土や石の城壁を巡らし、その中に建物を建てました(約70棟の建物跡が見つかっており、そのほとんどが高床の倉庫と考えられます。城壁は総延長8kmに及び、その途中4か所に出入り口の城門を設けました。この大野城は同時に築かれた基肄城(きいじょう)、眼下の平野をはさんで向い側(南)にある基山)、前年(664年)に造られた水城とともに大宰府を守る役目を果たしていた。当時(7世紀の中頃)、朝鮮半島では高句麗、新羅、百済の三国が構想を繰り返し、唐と手を結んだ新羅から、百済と日本の連合軍は大敗するという事件(白村江の戦い)が起きます。唐と新羅の侵攻を恐れた日本は北部九州を中心に防衛網を作りますが、その一つが大野城、基肄城(きいじょう)、水城なのです。(現地に設置の案内板より)
 スーパー台風19号が南九州に最接近した日に大宰府地域を訪ねました。強風雨の中タクシーで主要部分だけでもと思い訪ねましたが、結局、一部しか見られませんでした。撮影した写真も雨でにじんでいる状態です。…いつか改めて訪ねたいと思います。
城門跡の近くの広場にあった案内板(右の写真)より地図部分を抜粋。…下の方の現在地のところで、焼米ヶ原(尾花礎石群)から「大野城四王寺址」の石柱、鳥居のあるところを見て、帰途「百間石垣」経由、岩谷城址の入り口・案内板も見てきました(雨の中とても登山は無理でした)。
大宰府口城門と尾花礎石群への案内標示
尾花礎石群方向へ歩く…折り畳み傘が壊れそうで役に立たなかった 「特別史跡 大野城跡 尾花地区」の案内図 倉庫復元図があるが、ここには10棟の倉庫群があったとのこと。雨でレンズが…
 「大野城跡と四王寺山」の説明板が焼米原の標示柱の横にあった。
 
 風雨で先に進めなかったので、諦めて最初のところに戻る
…右に見えるのはトイレ
 よくわからないが土塁の跡のようだ…
       
上の写真の説明板だが、拡大しても判読不能…最後の部分で「版築土塁の試験施工」と読めるので、版築土塁を試験的に造ったか?
 更に進むと左右に高い土塁のような… 左側を見下ろすと、大宰府の市街が霞んで見える? 最初のところに戻った。大宰府口城門と尾花礎石群方向の標識があった。
       
 ここに、「大宰府城門」がこの下の方向との案内板があった。足場が悪く近づけず…。  「大野城四王寺跡」との石碑が…先ほどの道標方向の行き止まりの地点にあった。
     
石碑の手前に、左下に降りる道があり、降りていくと鳥居が…   鳥居の先(右側に)少し歩いてみた…
     
再度石碑の場所に上がり振り向く…   最初のところに戻る… 
     
 戻る途中、左側(大宰府口城門方向)を見下ろす…
 
 右の中段の写真にあった「案内板」…百間石垣の説明があった。  県民の森の入り口のところで見つけた道標…足場悪く入って行けず。
   
左側に、石が露出の場所と案内板を発見
 
石が露出している個所
 
 先の説明版があったところから、もう少し車で移動した右側に「百間石垣」の標示柱をと、石垣の一部が見えてきた。…石垣の全長は150m以上で寿内最大の規模。 
     
   
四王寺山の中腹にあった山城「岩屋城」の入り口を示す看板があった。「岩屋城は16世紀半ば豊後大友氏の武将高橋鑑種(あきたね)により築かれた。天正12年主家大友宗麟に叛き城を追われ、代わって吉弘鎮理(しげまさ)が城主となった。天正14年島津5万の大軍を迎え撃ち、激戦10余日、秀吉の援軍到着を待たず落城した。」(写真の説明板より)
アクセス:西鉄大宰府線太宰府駅から県民の森センターまで車で約15分、徒歩約50分。  

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