よしおば30

Welcome to New Yoshioba30's Homepage

全国城めぐりネット

 地域・都道府県別年代別日本百名城国宝・世界遺産現存天守12名城

武州松山城 埼玉県比企郡吉見町南吉見 2014.3.19 訪問お知らせ


 ~武田信玄、上杉謙信、北条氏政などの戦国主要大名が一堂に会した関東の歴戦の城。深く大きい空堀と複雑な縄張りが特徴~
 この城跡は、戦国期における山城の姿がほとんどそのままに残されている貴重な文化財である。市野川に突き出た部分から本城(本丸)、中城(二の丸)、春日丸、三の丸と南西から北東に向かって一直線に並び、その両側に多くの曲輪や平場をもっている。この主曲輪群の東方にも第二次的な施設があったが、太平洋戦争後の土地開発でまったく原型を失ってしまった。城史は、古代にさかのぼるとも言われるが、一般的には鎌倉時代末期の新田義貞陣営説、応永年間初期の上田左衛門尉(じょう)説、応永23年(1,416年)頃の上野介説などがある。しかしながら、城郭としての体裁を整えたのは、太田氏が、江戸、川越、岩槻の各城を築いたと時期に近いものと思われる。この城が天下に知られたのは、今から 4、 500年前の天文(てんぶん)から永禄年間のことで、城をめぐっての上杉、武田、北条の合戦は有名である。のち、豊臣勢に攻められ、天正18年(1,590年)落城した。歴代の城主上田氏の滅亡後は、松平家広1万石の居城となったが、松平氏が慶長6年(1,601年)浜松に転封されたのを最後に廃城となった。平成20年に国指定史跡となっている。(吉見町・埼玉県が現地に設置の案内板より)
 現地の案内板より…この地図の左下の「現在位置」の横の登り口より登城、先ずは本丸跡を目指した。 東武東上線東松山駅より徒歩20分ぐらい。
「吉見百穴」(よしみひゃくあな)バス停から見た城跡遠景(城跡そのものが吉見百穴に隣接)
 登山口入口の案内板と登り口の階段 階段上がりきったところに案内板、
「松山城跡入り口」の案内標識があった
暫く、やや急な登山道を上る。
「本曲輪方面」の案内標識が…
本丸に上がる階段の下に到着…この石段は現代のもの 階段を上がる手前、右側の削平地(笹曲輪) 階段の右側の空堀部分を見る
本丸に上がる。入口から歩いてきた登山道を振り返る。 同じく本丸より、先ほどの笹曲輪部分を見る。…このように空堀は多いが虎口跡らしい場所はない模様。 本丸の北側に残る土塁跡…
 本丸には建物跡が見られるが、コンクリート基礎であり現代のもの(以前ここに神社があったらしい) 本丸にあった、説明版より、縄張り図を拡大図示
   
本曲輪(本丸)の標識…国指定比企郡城館跡群、菅谷館跡、松山城跡、杉山城跡、小倉城跡の説明
 同様に、案内板にて、近隣の城郭配置、立地状況を図示してあった 本丸の北東側の、二の丸との間
の大きな堀を見下ろす
  
本丸の建物跡…この右が、すぐ上の写真の堀が横たわる
 
本丸東北部の少し高くなっている部分に建つ「松山城址碑」… 本丸と二の丸の間の大きな空堀…左の写真の碑の建つ場所がこの空堀に突き出していて、横矢がかかっている状況。 今度は本丸から西側、市街方向を見る
     
 向う側の二の丸への道…これは後世に作られたものらしい。当時は木橋が本丸と二の丸にあったのではと想像される 本丸より、二の丸を見る。この崖の高さが分かりますね!深さは7~8mはあろう。
…余り整備されていないが雄大な眺めだ。
 上の写真の通路より、堀の底部分を見る。向こう側が二の丸の端の方か。
 上の写真と同様に、堀底から、今度は市街(南側)を見る  二の丸へ上がるところ。3月上旬の大雪による樹木の損傷がここそこに見られる 二の丸から本丸側を見る
…先ほどの城址碑が分かります?
 
 旧城域に建つ、武蔵丘短期大学が遠くに見える(1991年に設立された) 二の丸から三の丸方向に歩く  三の丸との間の堀から三の丸側を見る
   
   二の丸から三の丸への通路…土橋状になっている 三の丸の入り口部分が馬出しになっており、そこから左に続く空堀を見る。
馬出しから戻ってきて、二の丸からの通路を振りかえる  二の丸から三の丸への通路…大きな堀を超える通路がこのようにあるが、実際は要所に木橋をかけていたのでは?  左の通路から右側の堀を見る
…遠くに市街部が見える
 二の丸から三の丸方向へ 二の丸から三の丸への通路の土橋を見る…この先にいくつかの馬出しが
     
 三の丸から下の短期大学方面を見下ろす
 
 三の丸と四曲輪との間の空堀 なお、各曲輪の呼び方は色々あるが、ここでは本丸(本城)から北東に直線状に、二の丸、三の丸、四曲輪、五曲輪とした。 三の丸に一旦戻って(三の曲輪の標識が)…
 今度は堀底経由四曲輪へ  堀底部分から四曲輪(左)を見る
 水溜り部分…訪問時は枯れていたが、以前は水がたまっていたとのこと(飲料水として利用していたか)  四曲輪から三の丸方向を振り返る この通路も後世のものであろう!  四曲輪から見る三の丸…崖のように見える三の丸の高さがうかがえる。
     
三の丸方向への標識  曲輪四の標識  曲輪四の説明
     
曲輪四の全景…西側に幅5mの土塁が残るとの説明はあった 曲輪四の端の部分…標識があった
     
曲輪四と曲輪五の間の空堀
 
同じく空堀の底だが、整備されていなくて樹木が大きく成長している 曲輪五相当部分か 五曲輪の端の部分…この先は開発されている
     
民家の敷地を通り、市街地の道路へ出る  ここで「松山城跡入り口」の標識を発見 
     
民家の畑の横を通り竹藪を目指す…ここに二重掘りと思われる痕跡が 竹藪状態の堀のひとつ。この地点に降りるだけでも大変だった
     
二重掘りであり、その間の土塁)尾根部分)から撮影したが…右と左にわずかに見えますかね  
 
 二重掘りの間の土塁の上で撮影したが、少しは感じていただけたか・・・・  こんな感じです…
    
同じく…
 
ブルーシートの左に広がる竹藪が
さっきの二重掘りのところ
 
 改めて城址を見上げる…城址碑が見える 本丸方向への標識だが、大手門とか
虎口とか何ら痕跡なし…
     
※ 松山城についての逸話として、風流歌合戦があり、北条氏綱が松山城を攻撃した際に、扇谷上杉の城代難波田弾正が味方の戦況不利なのを見て城に引き上げの際、北条方の山中主膳に和歌問答を仕掛けられたというもの。また、連絡用として初めて軍用犬が利用されたとか、武田軍が城攻めに際し、金堀職人を連れてきたとの攻防戦の話が有名。ルーシートの左に広がる竹藪が    
        
※(おまけ)吉見百穴:松山城に隣接の吉見百穴は、~いまも息づく古代の香り 横穴墓群~ と称されている。国指定史跡。 
今から約1300年前の古墳時代終末期の横穴墓群であり文献によると江戸時代の中ごろから「不思議な穴」として人々に興味を持たれていたようです。明治20年当時帝大(現東京大学)大学院生だった坪井小五郎博士が発掘調査を行い玉類・金属器・土器類など多数の遺物が出土しました。当時坪井氏により、「百穴は先住民の住居跡である」と言われていましたが、その後、日本各地で調査例・資料が増加しその結果、吉見百穴は古墳時代の横穴墓であることがわかりました。大正12年には国指定史跡となり現在219個の穴が数えられます。(入場時入手のパンフより)。
     
     
     
     
交通アクセス:東武東上線東松山駅より徒歩約25分。バス便もあり、東松山駅東口から「免許センター」ゆきバス5分「百穴」バス停より徒歩2分。
※ You Tubeに「武州松山城ー武田、北条、上杉攻防の激戦の地」をアップしました!こちらをクリックしてYou Tubeのページへジャンプしてください!

ギャラリー